Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2015年1月14日水曜日

誰が初めにアラブの春を使ったのか【翻訳】


私は昨日、国連『文明の同盟』のブログ記事に驚かされた。今ではあちこちで聞くようになった「アラブの春」という言葉が『Foreign Policy』誌によって初めて使われ、今では一年経過したMENA地域を変革してきた革命のブランディングにジャーナリストやアメリカの活動家が使うようになったというのだ。

私は『Foreign Policy』が用語を作ったとは思い出せなかったし、それが本当なのかに興味があった。その答えは、うんと、えっと、恐らくだ。

現時点で回顧されることは少ないが、「アラブの春」という言葉を初めに使ったのは、主としてアメリカの保守的な評論家で、2005年の中東における短期間の民主化運動の勃興を指してのことだった。

この年の1月6日―チュニジアの野菜売りモハメド・ブアジジが死亡してからたった二日後―『Foreign Policy』のマーク・リンチは「オバマの“アラブの春”」という記事をポストし、チュニジア、ヨルダン、クウェート、エジプトといった多様な中東諸国が衝突しつつあることを言及した。

新しくパワフルな衛星放送の画像イメージに刺激され、地域全体へと波及していった運動によって人びとがアラブ独裁の停滞からの脱却を夢みて、ベイルートで抗議活動が注目を集めたとき、私たちはオバマ政権に2005年と同等の始まりを見ているのだろうか。今回はソーシャルメディアがアル・ジャジーラの役割を担うのだろうか?結果は変わるのだろうか?

「アラブの春」への言及はForeign Policyのサイトが最初であるし、2011年からのもので私が見つけられた最も初めのものだった。とはいえ読者には冒頭のリンクへ目を通すことを勧める。

レキシス・ノキシスによれば、2005年の事件を除けば、最も最初の言及は1月14日『クリスチャン・サイエンス・モニター』のチュニジア大統領ベン=アリーの追放後の論説だという。

アラブの春?それとも、アラブの冬?

最も小さく、けれども最も安定した国の一つであったチュニジアで抑圧的な指導者が追放されるという民衆蜂起を目の当たりにして、この選択が中東北アフリカの独裁者の前に立ちはだかっている。

次の言及は1月25日のエジプト野党の党首モハメド・エル バラデイへのインタビューDer Spiegel』のものだ。

おそらく我々は今、初めて「アラブの春」のサインを経験しているのかもしれない。(1986年の「プラハの春」と呼ばれる自由民主化運動と同様の)私たちの近隣国はパイオニアの役割を担ってきたエジプトに目を置いている。私の母国が自由と民主主義が花開く最初の国であることを願う。私たちエジプト人もチュニジアで達成されたことができるはずである。

翌日、フランスの政治学者ドミニク・モイシがコラムのタイトルにそれを用いた。

三月中旬にはこのサイトを含め、多くのメディアで「アラブの春」という言葉は広く流布し、それは皮肉にもその言葉の内実が失われ始めていたときだった。

用語は広く使用されているのにも関わらず、アラブの論客や活動家はこの言葉に対していくぶん不快を感じていた。これは何も驚くべきことではない。なぜなら想起される「プラハの春」は短い民主的自由の後、ソビエト軍の戦車によって打ち砕かれたのだから。

しかし、よくも悪くも、誰が初めに使いだしたかにせよ、言葉は行き詰まったのだ。

あなたはいつ初めて「アラブの春」を聞き、もしくは耳にしましたか?コメントで教えて下さい。


著者(Author):JOSHUA KEATING
(元記事:Who first used the term Arab Spring? - Foreign Policy)

※大筋の本意が伝わればと思い、爆速で平易に訳しているので、多分に意訳を含んでいます。誤訳や内容での指摘があればコメントお願いします。

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