Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2014年7月30日水曜日

「ウォーキング・デッド」に伏流する"適者生存"のアポカリプス


「ウォーキング・デッド シーズン4」を観終わり思ったところを、少し。
今シーズンから加わった少女二人、リジーとミカ。
ウォーカーズ(ゾンビへと転化した人々)を殺すことに反対し、「彼らは私たちとは違うだけなのだ」と執拗に信じて疑わないリジー。
タイリースとキャロルが目を離した隙に妹のミカをナイフで殺害してしまう。
完全に頭が混乱したリジーに手を焼いたキャロルは苦渋の選択の末、リジーを銃殺する。

社会にシステムを築き、自然を超克したかに見えた人間は世界の王だった。
突如、発生したウォーカーズの群れは次から次へと人間を襲い、その勢力を拡大していく。

ウォーカーズが支配する世界になった後、優しさや慈悲は生存の足かせになる。
いかに無慈悲に冷酷になれるかが生死を分ける。
それが新しいルールとなった。
そこにうまく適応できない者は、一瞬のうちにあちら側の世界に引きずり込まれていく。

この人間vsウォーカーズの攻防に、次の文章を想起せずにはいられなかった。
つい前に話題になっていた人間や生物種の生存競争に関する名文。
これほど理路整然と自己の思考を最奥まで突き詰めた文章にはなかなか巡り合えるものではなく、言外にどこまでも広がっていくような広漠とした知識がかいま見えます。刮目です。以下、勝手に転載させていただきます。(引用元
【問い】弱者を抹殺する。不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思います。自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。でも人間の社会では何故それが行われないのでしょうか?文明が開かれた頃は、種族同士の争いが行われ、弱い者は殺されて行きました。ですが、今日の社会では弱者を税金だのなんだので、生かしてます。優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのですか。今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。人権などの話を出すのは今回はお控え頂ければと思います。
【答え】 え~っと、、、よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています***自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です個体レベルでは、最終的に全ての個体が「喰われ」ます全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、必ず死にます個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありませんある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです種レベルでは「適者生存」ですこの言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)そして自然というものの特徴は、「無限と言っていいほどの環境適応のやり方がある」ということです必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り「適応」してさえいれば、強かろうが弱かろうが関係無いんですそして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります人間の生存戦略は、、、、「社会性」高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略ですどれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました生物の生存戦略としては大成功でしょう(生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよあるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です遺伝子によって発現されるどういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれませんだから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんねということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということですその「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんですだから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです
心底腹落ちするというか、開眼させられるというか、見事な論理・思考展開です。

物語の中では未だに、なぜいきなり転化現象が始まったのかには具体的には触れられていません。
もし、ゾンビ化することが人類の種全体としての新しい生存戦略であったとしたら、今主人公のリックをはじめ残された少数の人間たちが日々繰り広げている抗争はほんの些細なあがきでしかない。
ウォーカーが頭をつぶさないかぎり生き続けるからです。
ただ、後世を考えたとき、繁殖機能がない(と思われる)ウォーカーと寿命はあるけど生殖機能がある人間はどちらが生存競争にふさわしいのか。
先進国で加速化する特殊出生率の低下、終わることのない戦争、この物語に伏流するのは、ある意味で人間が人間になりすぎてしまった社会に対する壮大なアポカリプスなのかもしれません。

【前回の「ウォーキング・デッド」に関する話題】⇒「ウォーキング・デッド」に棲みつくリヴァイアサン
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