Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2014年6月4日水曜日

なぜわたしたちは夢を見続けるのか?―「技術決定論」の解体作業


今なら、ビッグデータやクラウド、少し前ならWeb2.0、「技術が社会を変える!」という言説は繰り返し再生産し続けてきた。
「システム社会」「ネットワーク社会」などその容器を入れ替えながらも、本筋ではほとんど変わらない。

技術決定論(technical determinisim)とは学術的にいえば「技術が社会構造や社会的相互行為、個人を規定する唯一の要因であると主張する学説」である。(参考:「技術決定論と文化決定論(technological determinism and cultural determinism)」)

いずれにしてもこういった技術決定論的な視座に立った「情報化社会論」は佐藤俊樹教授によれば、60年代から滔々と語られ続けてきたという。
社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望 (河出文庫)社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望
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なぜ半世紀もの長きにわたり、このディスコースは生きながらえてきたのか。
それははじめから死んでいたからだと佐藤教授はいう。
その比喩として、ホラー映画の「生きている死体(living dead)」を挙げている。
つまり実質・中身をもたないこと。
なんでもないことは、なんでもあるということでもある。
これを佐藤教授はゼロ記号=空虚な記号signifiant zero)と呼ぶ。

そしてそれを可能たらしめている背後にある要因としては近代産業社会(主な制度として産業資本主義、民主主義にもとづく社会制御という政治制度がある)がある。
佐藤教授は技術決定論を批判的に捉え返す。
術の進歩と社会の変化を考えるとき、どのような技術がどう使われ・どう発展していくか―そこには社会の側の多くの諸力が重層的かつ複合的に作用している実例を数多く上げながら、「情報技術が社会の仕組みを変える」のではなく、むしろ、社会の仕組みの方が技術のあり方を決めているのではないかというものだ。

ソシオメディア論を研究している水越伸教授の見方も社会構成主義に近い。
「エレクトリック・メディアは情報技術の発達によって変化するだけではなく、国家や資本の編制力から、市民、あるいは大衆の想像力にいたる、複合的で重層的な社会の諸力の錯綜した結果として、今日のような姿に固定化させられてきた」
21世紀メディア論 (放送大学大学院教材)21世紀メディア論
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たいして、技術決定論寄りの本としては東浩紀氏の『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』が挙げられるだろう。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル
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議論のまとめなどは2年前に読んだ時のもののリンク先を参照してもらうとして、自分なりの一般意志2.0の解釈だけ付記しておきたい。
すなわち、それはゾーエーのとらえ方に顕著に見られるのではないかということ。
罵詈雑言でわめき散らす人、極右過激派のような人、社会には色んな人であふれている。
こうした個人をミクロに眺めるのならば、たしかに彼らは剥き出しのゾーエーに見える。
ただし「一般意志2.0」が射程にするのは、よりマクロで総体的なもの。
これをテクノロジー、制度・システムの設計によって最適化できるのではないかというふうに理解している。

ただし、考えてみれば分かるように、純粋な技術決定論的とはほぼ想定不可能だと思われる。

たとえば、四川大地震を例に。
この大規模な地震が起きたとき、ソーシャルメディアを通じてこのニュースは中国国内にもすぐさま知れ渡った。
時間を置かずに、寄付や支援が次々と届いた。
アメリカと中国の間に海底ケーブルが繋がれていたことはたしかに、これを可能にする重要なファクターであったことは間違いない。
しかしながら、それを可能にしたのはアメリカに留学していた中国人(その逆も然り)や海外に駐在した中国人など、はじめに社会的な紐帯・絆が醸成されていたということも見逃せない。
技術のケーブルには、社会のケーブルが欠かせないのだ。

このように技術決定論と非技術決定論の中間にあるような議論をしている本として、クレイ・シャーキーの『みんな集まれ!ネットワークが世界を動かす』がある。
みんな集まれ! ネットワークが世界を動かすみんな集まれ! ネットワークが世界を動かす
クレイ シャーキー,岩下 慶一

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その主張の核として以下を引用したい。
「革命は、社会が新しいテクノロジーを手にしただけでは起きない。社会がそれを新しい習慣とした時に起こるのである」
これは技術決定論的にとって核心的な批判だと思われる。
このような意味で本来、技術決定論的と対置されるべき対抗概念は存在しないのではないかと思う。
まっさきに浮かぶのが「社会決定論」という言葉であるが、技術と社会を同じレベルの変数として扱うのが極めて困難であるという点で(技術は独立へ、社会は従属変数)一応、これまでは社会構成主義や非技術決定論という語彙を用いた。
おそらく「強い技術決定論」や「弱い技術決定論」とするのが適当だと思われる。
たとえば政治哲学でもD・ミラーなどは「強いコスモポリタニズム」「弱いコスモポリタニズム」というような区別を行っている。
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デイヴィッド・ミラー,山岡 龍一,森 達也

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こうした社会学やメディア論、押しなべて言えば社会科学で積み上げられてきた理論や論争、フレームワークを道具として使い、いかに現実をみることができるか。
たとえばこの「技術決定論」に関するプレゼンを共同でやった先輩も「「起業したからこそ学問の大切さに気付いた」”現役東大院生”前島恵さんの起業ストーリー」というインターンシップ記事の中で、技術決定論や進歩史観といったアカデミズムでさかんに語られた問題をじっさいの社会に見出しています。

それでいうと、先日、電車内でツイッターの創業記を読んでいるときに同じことを思ったのでした。
ツイッターを創り上げた彼らの信念の裏には技術決定論的な視座が少なからずあったと思うのです。
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孫さんが語るビジョン(「「300年後は平均寿命が200歳に」:【全文】ソフトバンク孫正義が予測する“テクノロジーの進化”」)。圧倒されます。技術決定論的な見方であることは間違いないにしても、とにかくワクワクしてくる。
だからわたしたちは夢を見続けるのかもしれません。

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