Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2014年5月29日木曜日

【翻訳記事】人生はゲーム これがあなたの戦略ガイド

スタートを押す

ほんとうの人生とは―まさしく皆がプレイしている―ゲームである。しかし、ときには難しいこともあるだろう。これはあなたへの説明書である。

【ベーシックス(基礎)】

気づいていないかもしれないが、人生は戦略ゲームだ。なかにはダンス、ドライブ、ランニングやセックスなどのたのしいミニゲームもあるが、勝利の秘訣は単純に、自分のリソース(資源、資質)をいかにマネージメントするかにかかっている。

もっとも重要なことは、成功をおさめるプレイヤーは正しいことに時間をつぎ込むということだ。後半になればお金がゲームに作用するが、あなたの最優先事項はいつも時間をどこに充てるかに向いているべきなのである。

【子ども時代】

人生はランダムな性格と状況を与えられ、はじまる。

キャラを選べない

はじめの15年前後はたんなるチュートリアルでつまらない。これは避けられない。

【ヤングアダルト(成年時代)】

若いプレイヤーのあなたにはたくさんの時間とエネルギーがあるが、ほとんど経験はない。歳をとるまで手に入らなかったほとんどのもの―例えば、最良の仕事、モノやパートナーを見つけるだろう。
速くスキルを磨く時間だ。あなたは二度と同じように時間やエネルギーを持つことはない。
今あなたは順調にプレイしている、そして優先事項は時間をできるだけ最適に配分することだ。どんな些細なこともあなたの状況やスキルに影響を与える。(次の画像を参照)

【プログラミング】+コーディングスキル +キャリアの成功 +論理
【飲酒】+健康 +体力 +お金

いささかシンプルに聞こえるかもしれないが、問題はどんなタスクを選べばいいのか分からないこと、そして身体が命令に従わないことがあるということだ。さあとりかかろう!

【命令に従う方法】

おおくのプレイヤーが何をするかを選択するとき―例えば、「ジムに行くこと」―彼らの身体はその命令を無視する。
これはバグ(*1)なんかじゃない。人それぞれに自分では直接みえないような状態がある。つぎの画像を見てほしい。

(*1): コンピュータプログラムに含まれる誤りや不具合のこと。

健康
体力
意志の力

もしあなたの状態を示すゲージのどれか一つが極端に低くなったら、身体はニーズが満たされるまであなた自身の指示に従わないだろう。疲労困ぱいで、お腹もすいているときに勉強してみてほしい。すぐに集中はツイッターへと向かってしまうだろう。

「意志の力」のゲージは輪をかけて重要だ。意志の力は一日を通して下がっていき、食べることで若干補給され、夜の良質な睡眠で完全に回復する。意志の力のゲージが低いときのあなたは、ほんとうにやりたいことしかできない。

あなたが下すべての決断には意志の力がコストとしてかかり、魅力的なオプションを却け、あまり魅力的とはいえないもの(例えば、テレビの代わりにエクササイズをすること)を選ばなければいけないときには多くの意志の力を要する。

行動習慣を正常に維持・継続するためにはいくつかのコツがある:
  1. 状態を高く保つこと。もし空腹だったり、疲れきっていたり、楽しみを完全に奪われているとき、意志の力は崩壊するだろう。常時、自分自身をいたわるように。
  2. 一日に多すぎる意志の力を要求しないこと。厄介なタスクは複数の日に分散させ、楽なタスクとミックスさせよう。
  3. もっとも重要なタスクからとりかかろう。こうすることで他のタスクがより難しくなるが、トップのタスクを確実に終えられる。
  4. チョイスを減らすことで意志の力のムダ使いを減らすこと。もしもフェイスブックにアクセス可能なコンピュータで作業していたら、より多くの意志の力が必要になる。なぜなら、絶えずあなたは難しいタスクを置いて、簡単な方をを選んでしまうからだ。気が散ることは除去しよう。
ゲームをプレイする上でキーとなるのは、身体の状態を把握しながら競合する優先事項にバランスをつけることだ。機械的にやるのはよくない、それでは何も終えることができない。

【正しいタスクを選ぶ】

正しいときに、正しいタスクを選ぶことがゲームの要諦だ。
いくつかのタスクはかなりの程度であなたの状態に影響を与える。例えば...

食べること 
+エネルギー 
ー空腹

他のものはあなたのスキルに影響する:

ロック 
+音楽の才能 
+フェイスペインティング

健康状態を保つために時間を使う必要がある―たとえば、食事や睡眠―そうすれば意志の力を高い状態で維持できる。それから、自分自身と相談しながらスキルを向上させよう。いくつかのスキルは他のものに較べ、価値が高い。良いスキルは道を大きく切り開いてくれるだろう。たとえばテックツリー(技術の木):

コンピュータ・スキル
映画製作者、プログラマー、ウェブデザイナー
→Facebookの発明者
→億万長者

他のものは行き止まりだ:

ヒザでボールをリフティングすること

スキルを組み合わせることがもっとも効果的だ。一つのスキルを最大限活かすのはとても難しい―じじつ、大体において不可能だろう。だが、ある程度の相似的なスキルを組み合わせることで何か大きなものに到達するのが容易になるだろう。例えば、

ビジネス+自信+心理学
=アントレプレナー(起業家)

料理+ダンス+心理学
=男からモテる

これをみるといかに心理学があなたを金持ちや魅力的にするかが分かるだろう?これを学ばない手はない。

【どこに住むか】

環境は絶えずあなたの状態、スキル、そしてレベルアップの機会に影響を持つ。

ゲームをうまくプレイにするにはどこでもかまわないが、特定の場所でやった方がうまくいくのは確かだろう。もしあなたが女性で、間違った国にいたのなら、多くの達成は成し遂げられないだろう。

はじめから最適な場所に産まれ落ちる可能性は実質ゼロだろう、ならば選択肢について調べ、早く移動することを考慮すべきだ。場所というものは状態やスキルを倍加させてくれる。

【パートナーを見つける】

人を惹きつけられるかどうかはそれ自体でかなり複雑なミニゲームであるが、たいていは既にゲームをプレイしているそのやり方の副産物だろう。もし状態が上向きで、高いスキルを持つなら既にかなり魅力的だと言える。疲れていたり、苛立っていたり、スキルが未熟なプレイは魅力的に映らない、そしておそらくそういう人は異性との関係を求めるべきでないだろう。

●目標達成
幸福+1
頭痛✕2

ゲームのはじめの段階では拒絶したり、ほかのプレーヤーに拒絶されたりということはよくあることだ。これは至って普通のことなのだが、不幸なことに多くのプレーヤーは拒絶の扱い方をよく知らないために状況に悪影響を及ぼすことがある。前へ進み続けるためには意志の力を拡張する必要があり、意志の力は睡眠によって補完されるので、十分な時間を取るべし。

出逢いの80%というのはあなた自身の魅力に帰結し―人生の大半がそうであるように―正しい時間を正しい場所に注ぐことを意味する。エクササイズ、社交的な交際、キャリアの充実、といったものは自動的にあなたの魅力を引き出すだろう。残りの20%は単純に正しい人々に出会える場所に自分の身を置くことだ。

【お金、お金、そしてお金】

ゲームがある程度進行すると、「お金」と呼ばれる新たなリソース(資源)をマネージメントしなくてはいけなくなる。多くのプレイヤーは早い段階でお金が増えることを経験するが、これは実際、多くの問題を生むこととなる。


お金に関してもっとも重要なルールは決してそれを借りてはいけないということだ。ただし、いずれ借りた以上の価値になるであろうものは例外だ。例えば、教育や抵当はそういう価値があり得る(だが必ずしもそうとはいえず、どういった教育や抵当かにもよる)。新しいシューズを買うために借りるのは筋が違う。

財政的な野心に応じて、心に留めておいてほしいいくつかの戦略を記しておく:
  1. お金で気を揉んだことがない。低ストレス戦略:単純に自分の財力の範囲内で生活し、万一に備え幾ばくかの蓄えを持つこと。余裕があるときにはいつでも節約を心がけておく、そうすれば後悔もせずに済む。
  2. 裕福。キャリアや環境を注意深く選び、絶えず上へ行けるように準備をしておこう。相性の良いスキルにかなりの投資をしなくてはいけなくなるだろう、そしてそれは時間を要する。状態をむやみやたらに酷使しないこと、さもないと燃え尽きてしまうだろう。
  3. 超大金持ち。自分のビジネスを始めよう。誰かの下で働いて、金持ちになるのはほとんど不可能だ。金持ちとは労働単体から成るものではなく、資産を所有することから来て、それはコスト以上のものをもたらす。自身の会社を持つことは強力な資産になるし、それはゼロから作ることができる。獲得物をより多くの資産と組み合わせていけば、最終的に働く必要性を取り除いてくれるだろう。
【人生の後半】

ゲームが進行すれば、残されたオプションも変化していく。結婚や子供は時間やエネルギーを奪い、ゲームにランダムな要素をもたらすだろう。(「たいへん!オムツ替えて!」)。これらのことはあなた自身をより早く成長させることを難しくする。

歳をとったキャラクターはたいていより多くのスキル、リソース、そして経験を持ち、以前では不可能だったクエスト(*2)を成し遂げる。例えば、「家を持つこと」や「(優れた)小説を書くこと」。

(*2): 「クエスト」とは冒険、探検という意。RPGでは「プレイヤーに課された任務」を意味する。

●目標達成
聴力ー1
履き心地の良いスボン+10

全てのプレイヤーは約29,000日、もしくは80年の後、死ぬ。状態やスキルが良好ならば、もう少し長く生きれるかもしれない。これを引き伸ばすチート(*3)は存在しない。

(*3): 「チート」とは不正行為の意。テレビゲームでは改造機を使って、正規のプログラムから逸脱したプレイをすることを意味することがある。

ゲームのはじめでは、自分が誰なのか、ここはどこなのか、そういったことにあなたのコントロールは及ばない。ゲームの最終局面に至ると再び同じことが起こる。過去の決断は劇的にあなたがどこで人生を終えるのかを規定する。幸せなのか、健康なのか、満足しているのか、こういったことに対し、晩年あなたにできることはほとんどない。

だから戦略は大切なのだ。なぜなら、私たちのほとんどは人生とは何かについて理解したときには、最高の場面はすでに過ぎ去ってしまっているのだから。

さあ、最高のプレイを。


著者(Author):Oliver Emberton

※大筋の本意が伝わればと思い、爆速でザックリとに訳しているので、多分に意訳を含んでいます。誤訳や内容での指摘があればコメントお願いします。なお註釈は、僕が個人的に加えたものであり、OLIVEREMBERTONの原文にはありません。


2014年5月28日水曜日

映画「インセプション」クリストファー・ノーラン監督作 10'(2回目)


公開時に劇場で観ました。
昨晩、なぜか突然みたくなりiTunes Storeで衝動購入。

一度観て、大筋のストーリーが覚えていました。
そしてエンディングが物議をかもしたことも記憶していました。
なので、エンディングに連なる物語や設定のプロットを見失わないように注意深く鑑賞しました。

結論からいうと、ラストの年老いたサイトー(渡辺謙)との対話シーン、そして離れ離れになっていた子どもたち(フィリッパとジェームス)との再会シーンを現実(第0階層)と捉えるか、未だ夢の中ととらえるかは自由だということです。
おそらくクリストファー・ノーラン監督は意図的に受け手に解釈を委ねるために、ほんとうはどっちなのかを決定づける要素を省いたのではないかと思うのです。
個人的な見解でいうと7:3くらいで現実の方がありえそうだと踏んでいます。(深い考察はここでは避けます。既にそういったサイトがあります⇒映画「インセプション」徹底解説サイト

多階層という設定はユニークでおもしろいのですが、僕も時々考えてしまいます。
現実が夢をみるのではなく、夢の中の自分が見ている夢がじつは僕が現実だと思っているものなのではないかとか、「Avatar」のようなべつの肉体が仮想状態でみているヴィジョン=自分が"現実"と思っている世界、など。
夢とはほんとうに不思議なもので、無限に解釈を与えうるもので、フロイトが真正面から解き明かそうとしたのも頷けます。

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あとよく思うのが、時間軸の最先端にいる自分はすでに死んでいて、(よくいうように死ぬ瞬間にこれまでの過去が一気に走馬灯のごとくフラッシュバックするという)その思い出している場面に"今この瞬間"の自分はいるんじゃないかとか。
これに託つける形で決定論とかデジャブとかも考えると妙に腑に落ちたり。

それとか、(これは「インセプション」のオチとしても考えられるのかもしれないけど)そもそも現実自体が長い夢なんじゃないかということ。
ある日、突然だれかに肩をゆすられて(この映画でいえば"キック"で)目覚める。(「なんて長い夢だったんだろう!」と)

そして、死んだらどうなるのか。
アメリカにいたときに、同居していたメキシコ人のやつと眠れなくて、ひたすら話し込んでいたときに、死生観に話が及びました。(どれだけ話し込んだんや、という感じですが笑)
彼はいわゆる生まれ変わり、輪廻転生的な考え方を採用していたのですが、そのプロセスの考え方が面白かった。
向こう側にうっすらとした光の筋が見える。
そこに向かって歩いて行くと、輝度は増していき、目を開けるのも難しくなっていく。
とにかく、光の中に飛び込むと、そこには新しい人生が待っている。
つまり、光というのは子宮というか膣の内側からみえる外界の光ということで、そこへ向けてあるいていくイメージをすでに持っているというのが面白いなと。

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2014年5月26日月曜日

映画「トレインスポッティング」ダニー・ボイル監督作 96'(3回目)


出世 家族 大型テレビ 洗濯機 車 CDプレイヤー 電動カミソリ 
健康 低コレステロール 医療保険 固定金利の住宅ローン マイホーム 友達 
レジャーウェアにレジャーバッグ ローンで買う高級なスーツとベスト 単なる暇つぶしの日曜大工 ジャンクフードを食いながら見るくだらないクイズ番組
それが”豊かな人生”
だが、俺はゴメンだ 豊かな人生なんか興味ない
理由か? 理由はない ヘロインだけがある。 
高校生のときにはじめて観て、2年前にみて、今回で3回目。
よどみなく、なんとなく毎日が過ぎ去ってしまっているようなときに見返したくなる。
人生は選択であふれている。
次の選択がつぎの選択につながり、選択が立つ場所を決め、選択が人間を形成していく。

主人公のレントン。
揚げ足取りで、狡猾、だけどマヌケなシックボーイ。
根はいいヤツだけれど、周りにいいように使われ、自分を律するだけの自制心はないスパッド。
狂犬。だけどドラッグはやらないベグビー。
善良な青年、だけど失恋をきっかけに堕ちていくトミー。

観客は知らぬまに、キャラクターのだれかに自分を投影している。
だけどそのほとんどは十中八九、レントンだろう。
自分は曲がない、ほかのキャラクターみたいな角もない。
きっとみんなそう思っているだけで、そんなことはない。
ふとしたチョイスの重なりがいまの自分を形成してきた。

さいごのさいごで仲間を裏切るレントン。
一世一代の選択を下した彼が考えていたこととは。
なぜ裏切った? 
本当のところは俺がワルだからだ 
だが変わろうと思う 
これを最後に足を洗ってカタギの暮らしをする楽しみだ。 
あんたと同じ人生さ 
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そういえばダニー・ボイルの『トランス』を劇場で見過ごしてました...。

2014年5月23日金曜日

映画「レオン」リュック・ベッソン監督作 94'


Huluで完全版を鑑賞。
この映画は登場人物がかなり少ない。
ある意味ではヒットマンであるジャン・レノ演じるレオン、狂気の麻薬取締官スタンスフィールドに一家を惨殺された少女ナタリー・ポートマン演じるマチルダだけ、だと言っても過言ではない。

リュック・ベッソン監督作ということもあり、淀んだ冗長性がいっさい排されたクリスプな世界観。
自身のプロトコル―観賞植物に水をやり、朝にトレーニング、ミルクを二つ買い、銃の手入れをする―に則って淡々と日々を過ごしていく中で、割り振られる仕事(清掃=殺人)を過不足なくこなしていく。
ある意味で平穏な日常に、突如現れる幼女マチルダ。
幼きナタリー・ポートマンが演じる彼女は、幼くありながら妖艶で、利発的。
最愛の弟を失った彼女は、怨恨だけが生きる意味となっていた。
そんな二人の奇妙な生活が続いていくなかで、マチルダは強く生きていく術を学び、レオンは誰かのために生きる希望を人生に見出していく。

ジャン・レノ出演作をみて、なんとなく「WASABI」を思い出したのですが、TSUTAYAとかでレンタルしてるのかなあ...。

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〘完全主観採点〙★★★★☆

2014年5月22日木曜日

読書『意志と表象としての世界』(Ⅰ〜Ⅲ)ショーペンハウアー著


「世界はわたしの表象である」―これは、生きて、認識をいとなむものすべてに関して当てはまるひとつの真理である。
「生を苦痛とみる」厭世思想家として世界中で滔々と読み継がれてきたショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』を読了。
たしか最初に読んだショーペンハウアーの本は『孤独と人生』だった。
振り返ってみるなら、インドへの旅へぼくを駆り立てた思想の奥底にショーペンハウアーの影響は少なからずあったのだと思う。

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解説やショーペンハウアー自身の第1〜3版への序文のなかでも触れられているように、この本がこのような体裁でまとまるには紆余曲折があった。
ショーペンハウアーが激しく糾弾するのに対し、当時のドイツ哲学・思想界ではヘーゲル、フィヒテ、シェリングなどが中心にいて、ショーペンハウアーはつねに周縁に追いやられていた。
彼のペシミズムはより一層深化していき、だからこそ彼の思想の深度もまた増したと思われる。
たとえば第2版への序文ではこんなことを言っている。
哲学はもう久しい期間一般に、一方では公けの目的のために、他方では私的な目的のために、手段として使われざるを得なかったのではあるが、わたしはそんなことには妨げられずに、もう三十年以上も前からわたしの思想の歩みを追っかけてきた。それはほかでもない、わたしはそうせざるを得なかったからであり、一種の本能的な衝動に駆られて、そうする外には仕方がなかったからである。しかしこの本能的な衝動の支柱となっていたのは、誰か一人が真実のことを考え、隠れたことを照らし出しておけば、それはいつか必ず思索力をもった他の精神によって把握せられ、その人の心を惹きつけ、喜ばせ、慰めることになるであろうという確信である。
さて本著は、第一巻=認識論、第二巻=自然哲学、第三巻=芸術哲学、第四巻=倫理学という構成をとる。
では、それぞれの巻は独立性が高く、どこから読み始めてもいいのかというと必ずしもそうとは言えない。
ショーペンハウアーは第1版の序文のなかで、かようなことを言っている。
本書の中で提示した思想を深く会得するためには、この本を二回読むよりほかに手だてがないことは、おのずと明らかである。しかも一回目は大いに忍耐を要するが―本書では終りが始めを前提とするのとほぼ同じくらいに始めも終りを前提としている、つまり後の各部分が前の各部分を前提とするのとほぼ同じくらいに前の各部分もやはり後の各部分を前提としている―このことを読者の方が自発的に信じてかかって下さらねければ、こうした忍耐は得られないのではないかとわたしは思う。
まだ一度しか通読していない自分にとっては、深く議論を掘り下げたり、敷衍したりすることは彼もいうようにできそうもないことなので、とりあえずは特に自分の思想に共振したところ、示唆深かった箇所をそれぞれの巻から引っ張っておくという作業だけ行っておきたい。


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教義(ドグマ)に没頭するのは閑暇のある理性のやることである。行動は結局のところ教義に左右されず、わが道を行く。大抵は抽象的な格率に従うことなく、まだ言葉になっていない格率に従う。このような言葉になっていない格率を表現したものことそ、ほかならぬ人間の全身全霊なのである。むしろ理性の機能は一段下位にあたるもので、この機能はいったんきめた決心を守らせ、格率を突きつけ、一時の弱みに反抗させ、首尾一貫した行動をとらせることにある。
哲学の任務は具体的な認識を抽象的に再現することである。いいかえれば、継起的で可変無常な直観、一般に情という広範囲の概念のうちに抽象的でないとか明晰でないとかいうネガティブなレッテルで一括されているところのいっさいを、抽象的な明晰な知にいたるまで、つまり一つの永続不変の知にいたるまで高めること、これが哲学の任務である。 
これに関連するところで、フランシス・ベーコンの『学問の発達』より。 
「世界そのものの声をもっとも忠実に復唱し、いわば世界の口述するところをそのまま写しとった哲学のみが真の哲学である。それはまた、世界の模写と反射にほかならず、なにか自分自身のものをつけ加えたりせずに、ただひたすら繰り返しと反響をなすだけのものである」
身体というこの唯一の客観は本質的に他のあらゆる客観とは異なっていて、あらゆる客観のなかでこれのみが意志であると同時に表象である、ということである。これに反し他の客観は単なる表象であり、いいかえれば単なる幻影でしかない。したがって身体こそ世界中でただ一つの現実的な個体である。すなわち身体こそただ一つの意志の現象であり、かつ主観にとってただ一つの直接の客観なのである。 

幻灯の映し出す絵はたくさんあり、さまざまであるが、すべての絵が眼に見えるかたちになるのは、たった一つの焰のためである。この比喩と同じように、相並んで世界を満たし、相次いで事件としてせめぎ合う現象はさまざまであるが、しかしそのなかで現象するものはたった一つの意志であって、万物はこの意志が可視的になり、客観的になったものにほかならない。意志はあの変転推移のただなかにあってもあいかわらず不動である。意志のみが物自体である。 
現象は無限の差異性と多様性をそなえているが、物自体としての意志は一つである。意志は一つであるという認識だけが次のことについての本当の解明を与えてくれよう。自然界のすべての産物にみられる見違えようのないあの不思議な類似性 analogy 、すべての産物は同時に与えられてはいないが、結局同一テーマのヴァリエーションとみなされるあの同族的な相似性についてである。このことと同様に、世界のあらゆる部分と部分とのあの調和、あの本質的な連関、部分と部分とが段階を構成する必然性、われわれがたった今考察してきたあの必然性―こうしたことを明晰に深くつかんで認識すれば、すべての有機的な自然の産物の否定しようのない合目的性の内的本質と意義に対する、真実で十分な洞察がわれわれには開かれてくるはずである。 (⇒ここなんかは昔自分が書いたブログ「世界は一つのアナロジーから成るのかもしれないを思い起こしました)
われわれが生きかつ存在しているこの世界は、その全本質のうえからみてどこまでも意志であり、そして同時に、どこまでも表象である。この表象は、表象である以上はすでになんらかの形式を、つまり客観と主観とを前提とし、したがって相対的である。客観と主観というこの形式と、根拠の原理が表現している、この形式に従属したすべての形式とを取り除いてしまったあかつきに、さらにあとに何が残るかをわれわれは問うてみるなら、これは表象とはまったく種類を異にしたものであって、意志以外のなにものでもあり得ず、それゆえこれこそ本来の物自体である。 
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まず芸術哲学について。個人的には予想に反して、2巻がいちばん興味深く読めた。
きっと再読するときには、違う箇所や巻に興味を持つとは思うのだけれど。
純粋に後天的(アポステリオリ)には、つまり単なる経験だけからでは、いかなる美の認識も可能にならないであろう。つねに美の認識は、先天的(ア・プリオリ)である。それはわれわれにア・プリオリに知られている根拠の原理の形態とはまったく違った種類の認識ではあるが、少なくとも部分的には、美の認識はア・プリオリなのである。
人間の美とは、意志の認識可能性の最高の段階における意志の完全な客観化である。  
真の詩人の叙情詩のうちには、人類全体の内心が写しとられ、過去、現在、未来に生存する幾百万の人間がいつの時代にもくりかえし出会っていた似たような境涯で感じたこと、またこれからも感じるであろうことは、真の詩人の抒情詩のなかに、適切な表現を得ているといえる。幾百万の人間が置かれてきた境涯は、またこれからも休みなく繰り返され、人類そのものと同じように恒常的な境涯としてありつづけ、つねに変わらぬ同じ感情をよび起こすものであるから、真の詩人の叙情的作品は、千万年を貫いて真実で、感化を与え、またつねに新鮮である。なんといっても詩人とはそもそも普遍的な人間のことだからである。いずれかの人の心を動かしたこと、いずれかの境涯で人間の本性から生じたようなこと、いずれかの場所で人の胸に棲みつきしだいに大きくふくらんでいったこと―これらはすべて詩人のテーマであり、詩人の素材である。 
歴史、地域を超えて人々の心を打つ作品、言葉、詩。その普遍性。 

仏教にも傾注していたショーペンハウアー。
脚注にもヴェーダなどからの思想的影響が色濃く現れている。
たとえば、ヴェーダより、
人が死ぬと、その人の視力は太陽と一つになる。その人の嗅覚は大地と、味覚は水と、聴覚は大気と、言葉は火と一つになる。

わたしの見解では意志こそ第一のもので、根源的なものであって、認識はあとから意志に単に付け加わったものにすぎないのであり、意志の現象にその道具として帰属しているものが認識である。それゆえいずれの人間も、そのあるがままの相は、意志からこれを得たのであって、意志の性格が根本であり、意欲はその本質の根底をなしているからである。これに認識が付け加わるにつれて、人間はだんだんに経験を重ねていくうちに、自分が何であるかをやがて知っていき、すなわち自分の性格をわきまえるようになっていくだろう。つまり人間は、意志の結果として、また意志の性能に応じて、自分を認識するのであって、古いものの見方にもあるように、認識する結果として、また認識に応じて、なにかを意志するというものではそもそもない。 
すなわち人間は認識したものを欲するのではなく、欲したものを認識するということ。
享楽であれ、名誉であれ、富であれ、学問であれ、芸術であれ、美徳であれ、それらのいずれかを求めようとする一定の努力は、われわれがその努力に関係のないあらゆる要求を捨てて、また他のあらゆるものを断念したあかつきにのみ、ほんとうに真剣に、そして上首尾に追求することができるものなのである。
漠然と抱く将来への不安や、ちょっと大仰だけれど就活へのアドバイスにもなるんじゃないかと思った箇所として、
単に、やってみたいという意欲があるとか、やればできるという能力があるだけではまだ不十分であって、人間は自分が何をやってみたいかと欲しているかを知っていなければならないし、やれば何ができるかを知っていなくてはならないのだ。かくてはじめて彼は性格を示すことになろうし、そのあとでようやく彼はなにか正当なことを成し遂げることができるであろう。そこに到達するまでには、彼には経験的性格の自然な帰結がそなわっているとしても、まだ無性格である。で、彼は大体において自分に忠実な人で通し、自分の魔神(デーモン)に引かれつつ、おのが進路を一目散に走り抜ける人に相違ないとわかっていても、それでも彼は真一文字の線を描くことはなく、震えた不揃いな線を描き、動揺したり、横にそれたり、後戻りしたりして、後悔と苦痛のたねを蒔くことになろう。こうしたことはすべて、人間におこない得ること達成し得ることは大なり小なり多数あることを現に目前にしていながら、そのなかで自分にだけ適するものは何であるかを彼が知らないために起こることなのである。(さらに過去に書いたブログで関連がありそうなものとして、「17歳のマルクスから、就活生のあなたへ」「就職、進学、そして生きていく事」)
満足はつねに新しい努力の起点であるにすぎない。努力がいたるところで幾重にも阻止され、いたるところで戦闘しているさまをわれわれは目撃する。かくて、そのかぎりでは努力はつねに苦悩である。努力の究極の目標というものはなく、それゆえ苦悩にも限度や目標はない。 
意志と表象としての世界〈3〉 (中公クラシックス)意志と表象としての世界〈3〉 
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そして倫理学へ。
度外れた歓喜や激しすぎる苦痛というこの二つを避けることができるためには、われわれは休みなく事物の全体的な連関を完全に明瞭に見渡して、それらの事物が帯びていて欲しいと望むような色彩であればこれを実際に自分の方から事物に押しつけるようなことをしないよう、辛抱強く警戒しつづけるだけの自制心を有していなくてはなるまい。
長いですが、本質的かつ大事な箇所なので。 
根拠の原理にとりすがって前へ進み、個々の事物にしばられているこのような認識―これを超越し、イデアを認識し、「個体化の原理」を突き破って見ている人、現象の諸形式などは物自体にとって関係がないということを自覚している人だけが、永遠の正義を理解し、把握する人であるだろう。さらにまたこのような人だけが、この同じ認識の力を借りて、徳というものの真の本質を理解することができるただ一人のものであり、徳の本質については当面の考察とつないでやがてわれわれに解明されることと思う。 つまり今述べた認識に達している人は、意志こそはあらゆる現象の即自態 das An-sich なのであるから、他の人々にふりかかる苦しみもわが身のこうむる苦しみも、悪も禍も、現れ出る現象はたとえまったく異なった個体として成立し、たとえ遠い時間と空間によって距てられてさえいるのだとしても、それでもつねに、ただあの唯一同一の本質にのみ関わりがあるのだということを明瞭に知るにいたるであろう。彼はまた、苦しみを課する人と苦しみを耐えねばならない人との差異はしょせん現象にすぎず、物自体―この二人のいずれのうちにも生きている同じ意志―にはそういう差異は関わりがないことを見破っている。こうした場合、二人のうちに生きている同一の意志は、意志への奉仕にしばりつけられている認識に欺かれて、意志は自分というものを見誤り、その現象の中の一つにおいては幸福を高めることを求めるかと思うと、もう一つ別の現象においては大きな苦悩をこうむらせたりして、こうして激しい衝動に駆られ、意志はわれとわが生身の肉を噛み砕きつつ、しょせんつねに自分自身を傷つけているにすぎないのだということを知らない。こんな風にして、意志はおのれの内部に包蔵する自己自身との抗争を、個体化という媒介を通じて表面にあらわす。
哲学とはなにか、かくあるべきかは常にショーペンハウアーの念頭にあるように思われる。 
世界の本質全体を抽象的に、一般的に、明瞭に概念のかたちで再現し、かくて世界の本質全体が反映している模像として、理性の永続的で不断に用意された概念のうちにこの世界の本質を託すること、これこそが哲学であり、哲学とはこれ以外のなにものでもない。
ショーペンハウアーの厭世観、ペシミズムがなぜ人々の心を掴んで離さないのか。
きっとそこには絶望を超えたたえぎる生命感が満ち溢れているからではないだろうか。
この世界の掲げ得る最大にして、最重要、かつ最有意義なる現象とは、世界を征服する者ではなしに、世界を超克する者である。世界を超克する者とはすなわち、真の認識を開き、その結果、いっさいを満たしいっさいの中に駆動し努力する生きんとする意志を捨離し、滅却し、そこではじめて真の自由を得て、自らにおいてのみ自由を出現せしめ、このようにして今や平均人とは正反対の行動をするような人々、そのような人々の目立たぬ寂静たる生活振舞い以外のなにものでもじつはない。 
くわえて、 
彼の眼差しがいちいちの個別的な苦しみから普遍的な苦しみへと高められていって、彼が自分の苦悩を全体の単なる範例にすぎないとみなし、倫理的な点で彼が天才となって、一つの事例は百千の事例に当てはまるものであるという風に考え、こうしてこの生の全体が本質的な苦悩であると把えられ、生の全体が彼を諦念へと導くにいたったとき、そのようなときにはじめて、彼はほんとうに尊敬に値する人物として立つことができるようになるのである。
最後に短い引用を、第1版への序文の最後から。
しかし人生は短いが、真理は遠くまで影響し、永く生きる。さればわれわれは真理を語ろう。(1818年8月、ドレスデンにて誌す) 

「文化」は卵か鶏か


カルチュラル・スタディーズの旗手レイモンド・ウィリアムズの『文化と社会』を輪読する講義からの、自らの備忘録。

文化と社会―1780‐1950 (ミネルヴァ・アーカイブズ)文化と社会―1780‐1950
レイモンド ウィリアムズ,Raymond Williams,若松 繁信,長谷川 光昭

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この著書の中で、ウィリアムズ18〜19世紀の社会変動の中で、文化(culture)、民主主義(democracy)、産業(industry)、階級(class)、芸術(art)が生まれたとし、それぞれについて当世の著述家たちの論考や理論を検討しながら、仔細な議論を展開していきます。

1点だけ備忘録に残しておきたいのは、果たして上記のようなものは言葉が付与されてはじめて出現したものなのか、それとも言葉ができる以前から社会に存在したものなのかという点です。
もちろん両者は相互依存的なもので、一種の「卵が先か、鶏が先か」論争の焼き直しのような構図として捉えうることだし、一般的な解答としては、「当然、現象はまず存在した。そこに言葉が与えられることで、その現象がより明確に顕在化され、強化された」。
一歩踏み込んだ仮説として僕が思ったのは、そういった現象⇄言葉の動態的なプロセスの端緒には何らかの意図、もう少し踏み込んでいえば、明確に「先鋭化させることを」企図した戦略があるのではないかと思うのです。
言葉が与えられると、その現象は社会の中で認知度が増し、一定の地位を帯びてきます。
どれを例にとっても良いのですが、たとえば階級なら、真っ先に思いつくマルクス主義。
マルクス主義は資本家vs労働者(プロレタリアート)という構図を図式化することで、人々の間に問題意識を喚起します。
「芸術」という概念が存在しなければ、作品にも価値は見出されにくくなる。
芸術活動に従事する人々からすれば、当然、「芸術」という言葉・概念が社会に広く膾炙していた方が都合が良いわけです。

いずれにしても、この言葉が現実(=現象)を創りだすのか、それともその逆なのか、の議論はどの学問分野にも必然的に現れる問題だということを認識しました。
僕自身は社会学はまだ初学者です。
大学時代の専攻は国際政治でした。
国際政治でもこの議論は当然あがっています。
国際関係論の一分野で「社会構成主義(constructivism)」というのがそれです。
国際政治理論で主流をなすのは「現実主義(realism)」というものですが、その対抗理論として打ち出されたものでもあります。

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もっとことを分かりやすく、平易にすると、こういった論式はごく日常にも見られます。
たとえば「女子会」や「たこパ」。
きっと以前から、女の子だけが集まって飲み会をしたり、ご飯を一緒に食べたりして女子トークをする場というのはあっただろうけど、具体的な名称が与えられることで、よりその活動が活発化していくといったようなこと。
このように日常でよく見られることと、アカデミズムで滔々と議論が交わされてきたことは本筋で同じようなことというのはよくあって、こういった二つの感覚というか視点を忘れずに日常生活を送りつつ、勉強もできたらな、と常々思う次第であります。

2014年5月21日水曜日

テレビは「民主主義」を殺すのか?


1960年代の池田勇人政権時から国会のテレビ中継がはじまり、テレビと政治の持ちつ持たれつの蜜月関係は連綿と続いてきた。
小泉政権時にはポピュリズムの最盛期を迎え、政治は劇場化し、じっさいに郵政民営化法が成立するなどの実際的な変化ももたらしてきた。

朝日新聞の特別編集委員を務める星浩氏とメディア研究者の逢坂巌氏共著による『テレビ政治―国会報道からTVタックルまで』や鈴木寛さん『テレビが政治をダメにした』などを読んで思ったことを、主に民主主義とマスメディアの関係についてのメモを残しておきたい。
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民主主義のエレメントを抽出すると、国民主権、政治的有効感覚(efficacy)、透明性/情報公開など枚挙に暇がなく、収拾がつかなくなってくる。
そのため、ここでは日本におけるメディアと民主主義を考えたいので、たんに制度としての「代議制民主主義」に限定して備忘録を残しておきたい。

まずテレビ擁護派の言い分で筆頭にあがるのが、テレビによって「民主主義の裾野広がった」ということ。
良くも悪くも、人々が政治に少なからず興味や意見をもつキッカケになった。
「朝ナマ、報道ステーション、TVタックルなど」碓井広義氏が言うような「町場ジャーナリズム」を形成した。
それに対し、(鈴木寛さんなどが急先鋒)批判派はそれにより民衆の政治に対する知識が浅薄なものとなり、誘導されたやすい、敷衍すると「民主主義が脆弱になった」という主張をする。
これはどちらも正しくて、ようは民主主義の拡大/脆弱性はコインの表裏であるということ。

そもそも60年代にテレビが政治に介入していくなかで、送り手・受け手の両者による上記の共犯関係は運命づけられていたのではないかと思う。
ここで「代議制民主主義」というものの、原理を思い出してみる必要がある。
最大限に簡略化すると、日々労働に追われる国民は忙しく、専心的に政治に費やす時間・能力がない。だから、政治を専門にする人間、代表者=政治家に、国民の代表としてその責を委任しましょう。
ただし、つぎに問題になるのは、選挙、投票。
そういう代表を選ぶにしても、各候補には政策や主義に差異がある。
いったいどれだけの人が各候補、各政党のマニフェストなどを読み込み、慎重に精査したうえで候補者を決め、投票しているか。
とくに大学や大学院に行くと、忘れてしまいがちなのですが、すべての人が客観的に独自の論理・思考でそういう作業を行うわけではないということ。(おそらく大卒者でもそういう人はいると思います)
地方の教習所に行ったとき、地元の友達とひさびさに会って話すときなど、階層というものを痛感するし、自分の論理は社会においては切り取られたほんの一部分にすぎないことが分かる。
若者はツイッター、フェイスブックで情報収集する、テレビなど見ないし、信じない、とインターネットの力を声高に叫ぶ傾向がある。
参院選の三宅洋平さんや都知事選の家入さんなど、当選こそできなかったものの、ある程度の票数を集めていることを鑑みると、将来的にそういう潮流になるのかもしれない。
しかしながら、現状では票田を占めるのは中年、高齢者層。
そういう人にとって尚テレビはメインの情報収集源でしょう。
視聴率至上主義の論理で動くテレビの側からすれば、二項対立などできるかぎり図式化し、扇情的な内容にすれば数字がとれる。(参考⇒「ラディカルな発言をすること、それで飯を食べること」)
池上彰さんの情報番組が好評を博しているように、視聴者としてみれば肩肘張らずに、できるだけインスタントに政治的知識が得られるならそれに越したことはない。
これが上で述べた「共犯関係」の概要です。
思えば、テレビが登場する以前にもこういった共犯関係は存在しました。
この共犯が日本における現代民主主義に横たわっているのではないか、そう思うのです。

なぜか分からないけれど、「猟奇的な彼女」を立て続けにみてしまった


おととい原作、きのうリメイクと、なぜだか立て続けに「猟奇的な彼女」を鑑賞。
韓国映画でいちばん印象的な作品は「私の頭の中の消しゴム」で、けっきょく切ない愛の物語が好きなのかなーって笑
韓国の映画は総じて、シナリオがすごく練られているイメージ。
この作品なんかは、ヒロインがシナリオを書くことを趣味しているだけあって、途中途中で彼女が書いたシナリオの物語を主人公たちが演じるシーンが挟み込まれて、それもまた魅力なのだけれど、やはり物語の最大の魅力は映画のはじまりから、終わりまで伏線が散らばりつつ、エンディングに結実していく過程の描き方がすばらしいこと。
ツッコミどころもありつつなのですが、純粋な気持ちで観れば、純粋に「ああ、いい話だな」って思える展開。
リメイクとはところどころの設定が微妙に異なっていたり、セリフの言い回しが違かったりと、それもまた楽しめるのですが、宿命として原作には勝てない。
それでなぜかエンディングではTaylor Swift "Back to December"が頭のなかで流れて。


原作も観てるし、わざわざリメイクを観る必要もないのですが、たんにヒロインが「24」でジャックの娘(キム・バウワー)として出ていたエリシャ・カスバートだったので笑
「in NY」の方がメッセージが直裁的で、再会の木の下にいた老人が、「運命は神様によって決まってる。だから彼を追うことは運命を曲げること」と運命を信じてやまないジョーダンに「こう考えてみたら」と語るセリフがその全てを物語ってるかと。
運命を曲げるのが―君の運命なんだと。
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2014年5月20日火曜日

読書『もっとも美しい数学 ゲーム理論』トム・ジーグフリード著


ゲーム理論の中では、利己心と共感、競争と協調、戦争と平和が並び立つ。ゲーム理論を使えば、遺伝子と環境が互いに働きかけるさまや、遺伝と文化が互いに働きかけるさまを説明することができる。ゲーム理論は、進化による変化と安定性の対立を調整し、仲立ちすることで、単純さと複雑さとを結びつける。個人の選択と集団としての人間の社会行動とを結びつけ、精神の科学と精神を持たない物質の間の架け橋を造る。
この文章を読んだだけでワクワクしてきます。
ゲーム理論は学際性の申し子といったところがあり、文理問わずその応用が未だ試みられていない分野はほぼ皆無といってよいと思います。
先日書いた「ウォーキング・デッド」に関するブログでも、リバイアサンの原理を説明するのにじつはゲーム理論的なフレームワークを援用することが有益でした。
ゲーム理論が含むさまざまなエッセンスは日常のあらゆる場所に散らばっていて、もっとも典型的なものでいえば「不完全ゲーム」の最たる例、ポーカーがあります。
東洋経済オンラインの「東大卒プロポーカープレイヤーの勝負哲学―日本人初のタイトル保持者が戦いのすべてを語る」という記事を読むと、木原さんは当然のごとくゲーム理論にも通暁しているのが窺えます。

こうなってくると、数学や物理などいち学問分野にとどまらず、社会や人類の基本準則に底流に伏在する普遍真理のような気さえしてきます。

エピローグの最後はプリンストン大学の神経科学者であり哲学者でもあるジョシュア・グリーン氏のこんな言葉で締めくくられています。
「最後の最後にはいっさいの継ぎ目のない形で宇宙を理解したい。と、そういうことなんだ。もっとも基本的な物理要素から、化学、生物化学、神経生物学、そして個々人の行動やマクロ経済行動まで、あらゆる領域が継ぎ目なしに統合された形でね」
筆者のジーグフリードはそういった期待を抱えつつ、俯瞰的に「ゲーム理論」を眺め、その可能性を探り、位置づけを行っていきます。

ともあれぼくがはじめてゲーム理論の入門書を読んだときは、たしか大学1年生くらいの時だったと思います。


高校生からのゲーム理論 (ちくまプリマー新書)高校生からのゲーム理論
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すぐさま、その緻密な戦略性や汎用性の広さに興味を抱き、これは国際政治の力学に応用すれば何らかのテーマで卒業論文を書けるのではないかと思いついたものの、大学生の浅薄な考えは何十年も前に先人たちがひと通り研究をし終えているのだということも後には知り...。(なにも国際政治に限らず、心理学、経済学、神経科学 etc...)

もっとも有名なものでいえばトーマス・シェリングの『紛争の戦略』があるし(彼はノーベル経済学賞を受賞した)、他にもこの分野で有名な人と言えばロバート・ジャービスや『つきあい方の科学―バクテリアから国際関係まで』で有名な社会科学者ロバート・アクセルロッドなどがいますよね。


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複雑性と国際政治―相互連関と意図されざる結果複雑性と国際政治―相互連関と意図されざる結果
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上で触れたポーカープロ木原さんが、こんなことをおっしゃっています。
弱いプレイヤー相手には、あえてこちらがナッシュ均衡から外れたプレイをし、相手により大きなミスをしてもらうことを狙ったりもしますが、強いプレイヤー相手にこれをやると、相手が正確に対応してくるので、ナッシュ均衡から外れたぶんだけ損失を出してしまうのです。
強いプレイヤーというのはゲームが始まって2時間もすればわかりますからね。基本的なプレイでミスしない。それが見えれば「この人は強い。ここから勝たなくてもいい」と戦略を立てます。いわばディフェンスのためのプレイですね。「ナッシュ均衡」的なプレイは、あくまで「均衡」だから、得にも損にもならないんです。
また、不完全情報ゲームである以上、一定の割合でミスプレイは発生します。その結果、大幅な損失が出ることもある。ただ、それは利益のためにリスクは付きものなので、判断すべきは「リスクを取ることが割に合うかどうか」です。もし、そのリスクが割に合うものであり、資金管理がしっかりとできていれば、長期的には利益が出るのです。 
ポーカーは「ナッシュ均衡」を理解した上で、いかなる「混合戦略」を採用していくのかが戦略のかなりのウェートを占めるゲームです。


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ここでポーカー論に立ち入るつもりはないのですが、僕が注目したいのはこの「均衡」というもので、この言葉を聞いて真っ先に思い出したのが生物学者の福岡教授が『動的平衡』の中で語っていたこと。
生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数カ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとして私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありように「動的な平衡」という素敵な名前をつけた。ここで私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることができる。「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」という回答である。そして、ここにはもう一つ重要な啓示がある。それは可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基板、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。
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物理学の側からフォン・ノイマン、オスカー・モルゲンシュテルンの『ゲーム理論と経済行動』に端を発し、ジョン・ナッシュがたどり着いた「均衡」も生物学の福岡教授がいう「平衡」も経路は違えど、一つの普遍的な真理、ジーグフリードがいう「自然の法典」へと近づきつつあるという気がしてならないのです。
ゲーム理論は、あらゆる科学(経済学、心理学、進化生物学、人類学、神経科学など)を統合する共通の数学言語を提供しており、これらの科学をパズルの駒のように組み合わせれば、命や精神や文化といった、集団としての人間行動の総体を明らかにする科学ができあがる。ゲーム理論の数学を物理科学の数学に翻訳できるという事実からも、ゲーム理論こそが、生命や暮らしと物理学とを統合する科学、つまり真の「万物の理論」をひもとくための鍵だといえよう。
高校1年生くらいのときに、この本を読んでいたなら、少し背伸びをしてでも理系の道に進んでいたかもしれない... そう思わせてくれる壮大な学問のお話。

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2014年5月19日月曜日

読書『社会を変えるには』小熊英二著


運動とは、広い意味での、人間の表現行為です。仕事も、政治も、芸術も、言論も、研究も、家事も、恋愛も、人間の表現行為であり、社会を作る行為です。それが思ったように行なえないと、人間は枯渇します。 
「デモをやって何が変わるのか」という問いに、「デモができる社会が作れる」と答えた人がいましたが、それはある意味で至言です。「対話をして何が変わるのか」といえば、対話ができる社会、対話ができる関係が作れます。「参加して何が変わるのか」といえば、参加できる社会、参加できる自分が生まれます。 
 SFCで社会学を教えられている小熊英二さんの『社会を変えるには』を読みました。
新書とは思えない、517頁という重厚な分量。
小熊さんといえば膨大な資料を渉猟しつつ、傍証を加えながら著述していくスタイルで知られていますよね。


〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性
小熊 英二

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ただ、この本は新書ということもあり、基本的に参考文献はほぼなく(中間の思想史や政治制度を扱うところでは出てきますが)小熊さんのこれまでの研究、思索、デモへ実際に出かけたときの経験談などからなっています。文も平易です。

日本の置かれた状況を冷静に分析したうえで、じゃあ個々の私たちは何ができるのか。
タイトルにあるように、「社会を変えるには」どうしたらいいのか。
スタイルとしては『独立国家のつくりかた』などの坂口恭平のようなぶっ飛んだ、ラディカルなものでは全然なくて、(そこは学者らしいというか、アレなんですが)ギリシャ哲学から遡って、政治、経済、社会の思想史を丹念にたどったうえで、そこから得られる知見を確認する作業を通じて、現在のコンテクストに当てはめながら、思索を展開していきます。(「ビジネスとアカデミズム」と「政治運動とアカデミズム」だとカテゴリーはべつなのですが、アカデミズムをどうほかの経路へ接続するかを考える上で、研究科の先輩のインタビュー記事<「起業したからこそ学問の大切さに気付いた」”現役東大院生”前島恵さんの起業ストーリーをとても興味深く、共感を覚えながら読ませていただきました。再来週あたりには、先輩と二人で授業でプレゼンします笑)

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)独立国家のつくりかた
坂口 恭平

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とりわけまずはじめに押さえておくべきなのが、個体論と関係論の発想の違いでしょう。


そこから近代における弁証法的世界観やギデンズのいう「再帰性の増大」をつかまえると、理解が進みます。(弁証法に関してはやっぱり今でも『弁証法はどういう科学か』が圧倒的に分かりやすいと思います)

弁証法はどういう科学か (講談社現代新書 (159))弁証法はどういう科学か
三浦 つとむ

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近代とはいかなる時代か?―モダニティの帰結近代とはいかなる時代か?―モダニティの帰結
アンソニー ギデンズ,Anthony Giddens,松尾 精文,小幡 正敏

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たとえば「再帰性の増大」は今の日本の社会でどのように現出しているでしょうか。
自由というのは、何らかの足場がないと、たんなる不安定に転じます。デカルトが想定した「われ」は、神という不動のものに支えられていました。しかし現代では、「自己」もまた、「こんな自分でいいのか」と迷いながら選択し、意思決定し、「作る」ものになっています。アイデンティティの模索、自分探し、キャリアデザイン、ダイエットなとがそれにあたります。しかし「自己」を作れば作るほど、作る主体であるはずの「自己」が変化して揺らぐのですから、無限の不安定がやってきます。自分を作りながら、自分を安定させようというのですから、はじめから矛盾した行為です。鏡に鏡を映しているようなもので、いつまでたってもやめられません。
さらに非正規雇用者やフリーターなど格差社会の中で斬り捨てられていく若者、保護に頼るほかない年金受給の高齢者など、経済的弱者ほどその再帰性の網に絡まれやすいのです。
再帰性の増大は、誰にも不安定をもたらしますが、恵まれない人びとへの打撃のほうが大きくなります。かつての貧しい人びとは、共同体や家族の相互扶助で、経済的貧しさをカバーしていました。あるいは、自分がつちかってきた仕事や技術や生き方への誇りで、心理的貧しさを補ったりしていました。しかし再帰性が増大し、選択可能性と視線にさらされると、それらが揺らいでいきます。相互扶助も誇りも失って、無限の選択可能性のなかに放りだされ、情報収集能力と貨幣なしにはやっていけない状態に追いこまれていきます。
うえで「斬り捨て」と書きました。
では格差の上部にいる人、恩恵にあずかっている富裕層はたんに「ゲーテッド・コミュニティ」のようなものを築き、見て見ぬふりを決めかかればいいのでしょうか。
ここで導入されるのがウルリッヒ・ベックの「ブーメラン効果」の話です。
近代科学と近代政治、近代経済は、主体は客体を操作できる、と考えてきました。科学は自然を支配できる。政治は民衆を操作できる。労働者が騒いだら解雇すればいい。そこまで単純ではないとしても、「主体」は「客体」を操作できる、場合によっては切り捨てれば関係ない、と考えてきました。しかし自然をいいようにあつかうと、環境問題が発生して、自分にはねかえってきます。あまりに格差が開くと、治安が悪化したり、少子化や税収低下がおこって、自分にはねかえってきます。第三世界の貧困など関係ないと思っていると、テロや地球環境破壊がおこって、自分にはねかえってきます。地方のことは東京には関係ないと思っていると、原発事故がおきてはねかえってきます。これがブーメラン効果です。
危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)危険社会―新しい近代への道
ウルリヒ ベック,Ulrich Beck,東 廉,伊藤 美登里

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その他、社会運動史・理論などにも触れていきながら、「社会を変えるため」にできることのあらゆる方向性へ考えを巡らせていきます。
レビューなどでそれほど評価が高くないのは、「なんだよ。結局オチはデモとか対話かよ」っていう人がおおいと勝手に想像するのですが、"デモ"にしろ"対話"にしろその裏にどんな思想的意図、自分なりの思索を持つのか、メタな次元を確立することも大事なんじゃないか、ぼくはそういうメッセージを受け取りました。

社会を変えるには (講談社現代新書)社会を変えるには
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