Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2014年4月5日土曜日

読書考2―残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるだろうか?


友人から脈絡もなく、「普段どうやって読書をやってるか」また「どうやって内容を自分自身に内在化させているか」というLINEが届きました。
それに滔々と答えているうちに、かなりの分量になったので、コチラにも残しておきます。

とのブログを1年前にも書きました。
読書に対する姿勢はこの時からそれほど変わっていません。

Ⅰ. 残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるだろうか?

①「時給1000円のアルバイターは資本主義下の豚なのか」そして③「「本を読む」ということは、「命」を差し出すことでもある
この2点を突き詰めていくと、単純に読書量を増やせば事足りるということでもない気がしてきます。
高校生のときまで、いや大学1年生くらいまで、ひたすら乱読に耽っていました。
ある意味で向こう見ずに、闇雲に、濫読するという行為は"若いうちは"奨励されるべきことなのかもしれません。
自分自身の中で、れっきとした興味・関心の方向性を自覚していたとしても、それはこれまでに出会った絶対的に限定されたインプット量から導き出された"とりあえず"のインタレストでしかないわけです。
社会は進めばすすむほど広く、先人たちによって積み重ねられてきた知の塔はあまりにも高い。
こと読書に関するかぎり、死するまで"飽く"ことないであろう蓄積がある。
(おそらくではありますが)知の巨人たちも例に漏れず、こういったプロセスを辿ってきたのだと思われます。

ところがです。
図書館で目を覆うほどに四方八方に所狭しと積み上げられた蔵書に囲まれると、未だ知らぬ知への高揚感から来る興奮と同時に、残された自分の生のうちで一体どれだけココにある本を読めるだろうかという圧倒的な虚無感と寂寞に身を抓まれます。

SNSから常時、垂れ流れてくるニュースや言説の束。
はたまた、あちこちから発信されるコンテンツ。
そういった情報のシャワーはできるだけ、積極的に多く浴びれば浴びるほどいいモノかと思っていましたが、少しづつ考えが変わってきました。
どれほどテクノロジーに進化がもたらされ、メディア環境が変容しようと人間の根幹的な部分はそれほど変化していない。
(たしかに寿命は延びたのかもしれませんが)基本的に1日24時間であるということ、基本的な認知能力に進歩はそれほどないであろうということ。



Ⅱ. どれだけ読むのかではなく、どれだけ読まないか

そうなると、インプットへも慎重になっていかざるをえません。
自分が欲している情報は何なのか、アウトプットを削ってまで得るべき情報なのか。
いかに多くの情報を取り込むのか、ではなくいかに多くの情報を得ないか」「いかに多くの本を読むか、ではなくいかに多くの本を読まないか」という視点が芽生えてきました。
もちろんそのためには必然的に「質 quality」を追求していく姿勢が不可欠になってきます。
量は質に転化していく」このフェーズを経たのちに、量そのものは減らし、質は向上させていというように、自分の読書遍歴を振り返ると思考をスライドさせてきたように思います。
上質な情報への直観的なな嗅覚センサーの精度を上げていく。(その意味で多くの知識人が唱道するように古典は概して"外れ"が少ない。歴史という苛烈な淘汰競争をくぐり抜けてきた書物だけに"古典"という冠が付与される)
ネットに氾濫する記事も、本に書かれた内容も、媒体はなんであれ、それを読み聞きしただけでは"インプット"にはならないと考えています。
それらはあくまで「生(raw)の情報 」でしかないのです。

そこで今回、一歩だけ踏み込んで考えてみたいのが上記のエントリーでいう②「咀嚼、消化、排泄、そして循環」です。



Ⅲ. アウトプットがあって、はじめてインプットがある

本を読むときは、いつも気になった箇所の写し書き、思考の補助線となるようなメモをとることを心がけています。
時間に余裕のあるときはこのブログにも読書メモ的ブログを残すことも長く続けています。

このような端的に言って"面倒くさい"作業にも、それなりの対価があります。
アフィリエイトといった雀の涙にしかならない収入はそもそも考えないとしても、わざわざ当該箇所をそっくりそのままタイプすることで知らず知らずのうちに自分の中にもそういった言葉や思考が受肉されていくのです。

パソコンなどなかった時代、多くの作家たちは修練の手段として、先人たちの作品の写経をしこしこやっていたといいますが、その感覚としては近いのかもしれません。
じっさいに手を動かすことで、脳にも刷り込ませていく。
「守・破・離」でいう、"守"にあたる部分です。

「いや、これはどうなんだろう」「こういう考えもあるのではないか」と批判的読書をする中で自身の考察も簡単に添えておくようにする。
読書とは筆者の一方的なモノローグではなく、対話であるべき行為です。
てんでバラバラに散逸した思考の破片を集めて、一つの論考としてまとめ上げる、いわゆる"アウトプット"。
質の高いインプットがあってはじめて、質の高いインプットができると考えられていますが、(少なくとも自分の場合)それは逆であると考えています。
アウトプットという行為を通じて、はじめてインプットへ至るということです。
両者は分かちがたく結びついた関係性にあり、"表裏"というより"円環"と言った方が精確かもしれません。
歴史学の大家であるイギリスのE・H・カーはかの有名な『歴史とは何か』の中で、このように述べています。
読むことは、書くことによって導かれ、方向を与えられ、豊かにされます。書けば書くほど、私は自分が求めているものを一層よく知るようになり、自分が見出したものの意味や重要性を一層よく理解するようになります。
表題にした「残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるのだろうか?」という思いは常に、否定しがたく心のうちにあります。
そうであるなら、一冊読み終えたら、すぐさま次の一冊へ手を伸ばしたくなる。
でも、そこで一歩立ち止まってみる。

本を読むということは、"ヴィークル"に乗り込み、旅にでるということ」という短いエントリーにも書いたように「はじめに」から「おわりに」の中では様々な筆者と読者の思索のやりとりがあったはずです。
それらに再び思いを巡らし、まとまりをつける。
自分の身内で思考をすり合わせ、言葉を与え、形にする。(ブログを書くというのは、思考を"箱"に入れるという感覚に近いかもしれません)
一度箱にしまえば、いつでも取り出すことができる。

ブログのタイトルにもしている「言葉を手にしていく感覚」とは、こうしたアウトプットから引き出されるインプットにほかならないのです。



⇒「2013年に読んだ250冊から選ぶ10冊のブックレビュー

0 件のコメント:

コメントを投稿