Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2014年3月31日月曜日

「金髪」であるということについて



「金髪」
なぜ髪や頭皮を痛めてまで、髪の毛の色を変える必要があるのでしょうか。

染髪することなんてわりかしポピュラーだし、何の気ないことのように思えるようで、実は背景や効用があるような気がするのです。

大学生のときにも、(ある意味並みの学生らしく)茶髪、金髪、パーマなど人並みのおめかしはしたのですが、大学を出てからなお「金髪」でいた事から、色々思うところがあったので、ここに少し記しておこうかと。

というのも、大学を出てからすぐに就職しなかったこともあり、昨年1年間はプラプラしてたぼくは各所で意図せずして「金髪東大野郎」という名誉か不名誉か、というニックネームで呼ばれるように。
名前は覚えられてないのに、「金髪」「東大」というラベルだけはしっかりと皆さんの記憶には残っているようで。

まずは「ラベル」という役割があるのです。
とりわけ黒髪、黄色人種と同質性の高い日本においては、表層的な個性を出すのはファッションであったり、髪型なわけです。(てなことも日本が独特のファッションカルチャーを育んでこれた要員かとも推察しています。きゃりーぱみゅぱみゅとかはその極致)
とりわけ大勢順応に反旗を翻すティーンエージャーほど髪を染めたり、ピアス等のアクセサリーを身につけたり、タトゥーを入れたがったりします。
その向こう側でレールの向こう側にいる"大人"たちからは白い目で見られるのです。

日本では社会のシステムとして同質性を強める装置が各所に埋め込まれています。
体育の時の「前へならえ」などのフィジカルな習慣など見えにくいものもありますが、基本的には制服の着用があって、ピアスや染髪の禁止が規定にある。

LIFEVIDEOの代表を務められている土屋プロデューサーといえば金髪がトレードマークでしたが、去年くらいから黒髪に戻されています。
先日、お会いしたときに理由を尋ねると「信用を得られないから」とおっしゃっています。
LIFEVIDEOのメイン顧客は経営者を中心とした高齢者層。
金髪でいると、彼らの"グループ"にカウントしてくれないというのです。
そういう意味で言うと、黒髪、スーツにネクタイというのは一つの「表明」でもあるわけです。
「わたしはあなた達と同じ"グループ"ですよ」という。

その一方、ぼく個人の昨年一年間を金髪で過ごした体験はポジティブなものでした。
もちろん立場や状況が違うので、こういう経験をするに至ったということなのですが。

まず冒頭に書いたように、覚えてもらいやすい。
「あー、金髪の君か」と。

「金髪」であるということは、「金髪にする奴」というカテゴライズをされます。
歳が上の人ほど、懐疑的な眼でみてきます。(これは色んなことに敷衍できて、タトゥーなんかはもうちょっと度を強くしたものでしょう)

たとえば大学にて。
金髪の僕に対する教授の内心は「どうせ中身のないやつ。不真面目なやつ」という印象をはじめに持たれるかもしれません。

ですが!です。
そこで逆に好印象を持たれるような所作をすれば、倍の効果をもたらすのではないかとも思うのです。
「人間中身だよ」とは言うものの、見た目・外見がもたらす心理的認知的効果というものももちろん看過できません。
金髪なんて生やさしいですが、個性的な外見をしているほど、外見からは意外な所作をすることによって、普通の格好の人と同じ所作であっても評価されたり、注目されることがあるのではないかと思うのです。

取っ掛かりというのはいつも大事なものです。
どれほど内容の優れた本であっても、書店で誰の目にもつかず、手にとってもらえなければ意味がありません。

例を挙げようと思えばたくさん挙げられるのですが、たとえば東進ハイスクールで古文を教えられている吉野敬介さんなんかはその好例で、(というか東進はそういう先生が多い)見た目は強面なのに、語り口は優しく、中身も分かりやすい。
自分次第で"正の落差"を作り出せるというのが金髪、ひいては外見的個性の醍醐味かな〜と思ったのでした。

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