Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年7月12日金曜日

読書『マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心』林香里著

マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心

東大院・情報学環教授の林香里先生の本を読みました。
実はこの本は林先生自身の博士論文が主な叩き台になっていて、東大初の「博士(社会情報学)」での授与だそう。
おそらく主査は花田達朗先生で、あとがきには吉見俊哉先生の名もありました。

この本で呈示される仮説をまず3つ
①ジャーナリズムという主体的な意識活動は、マスメディアの周縁に宿る。
②ジャーナリズムの新しい可能性は近代自由主義思想の延長線上には、もはや見出すことができない。
③マスメディアというシステムは、現代社会において「公共性のアンビバレントな潜在力」(ハーバーマス)をもつ。そしてそれは、文化の違いを超えて認められる。

とりわけ一番重要かつ中心的テーゼになってるのが一番最初の仮説で
「ジャーナリズムの核心はマスメディアの周縁に宿る」
というもの。タイトルにもなってるし、なによりもこの論文を書き始め、書き上げるための最も重要なテーゼになってるわけですね。 

この周縁・中心という切り取り方、というか論じ方はネグリ+ハートの『帝国』が最たるもので、マルクス主義も広義で捉えるならその枠組ということになると思いますが、フレームとして分かりやすいんですね。
《1章 大衆化社会とジャーナリズム―「タブロダイゼーション」論争の視点から》で1980年代以降マスメディアが生産する新聞記事や放送番組の内容がビジュアル化や娯楽化へ急激にシフトしてきたことや、さらに記事やナレーション部分が極端に圧縮されてきた現象を「タブロイド化」として文脈化して考察されているのですが、そのなかで重要だと思ったのが先述の花田先生の「公共圏のパラドクス」という問題。
公共圏は平等という普遍的な原理を追求し、入場資格の切り下げをはかって、元来の基準からみれば無資格者に対しても参入を許容していったが、逆にそれが批判的公衆による政治のコントロールという前提を失わせる結果となった。公共圏はその拡大によって機能不全に陥っていったとみられる。
ジャーナリズムの研究とはいっても、ルーマンのシステム論だったり、ハーバーマスの公共圏論だったり、アカデミズムでは常識とされていることが既知の知識として求められるので読者も、それ相応の知識がないと、ちと厳しい内容かと思います。
そういう意味で大学院生やジャーナリズム論などを学ぶ人はまだしも、いわゆる一般読者には少し難儀な内容かと。

一応、ルーマンの「公共圏」の定義を確認しておくと、
「あらゆる社会内部のシステム境界のリフレクション」あるいは「社会的部分システム、つまりすべてのインターラクションや組織、そして社会的機能システムや社会運動をとりまく社会内環境」
「公共圏とは、一般的社会のリフレクションのメディウム(媒介)であり、それは境界を横断できないことを記録し、そして諸観察の観察を記録しているのである」 
「公共圏」をこういうように捉え返すと、マスメディアの機能は「公共圏の生産」というよりも、公共圏の「表象」であるというようになるということ。

最初に挙げておいたテーゼを例証する理論的枠組として、オルタナティブ公共圏、デューイのパブリック概念、コミュニタリアニズム、デリベラティブ・デモクラシーの4つが上げられています。(このへんは林先生自身が日本、ドイツ、アメリカで過ごした経験が色濃く反映されてのことだと)

公共圏の話は大部分をハーバーマスに依拠しているので、少なくとも『公共性の構造転換』、『事実性と妥当性』は読んでおかなくてはならないかと思います。



デューイといえば、プラグマティズムの系譜で欠かせない人物ですが、プラグマティズム理解では魚津郁夫先生の『プラグマティズムの思想』がとても分かりやすくて必読です。


プラグマティズムを代表する思想家ジョン・デューイ

コミュニタリアニズムに関しては、この本でもリベラリズムとの80年代以降の論争を中心に述べられています。このブログでも以前、『リベラル・コミュニタリアン論争』を取り上げたことがありました。

とまあ、Ⅱ部までは理論的な話が続き、Ⅲ部でいよいよこの本の骨子となる事例研究へと入るわけです。事例は3つ。
日本の新聞の「家庭面」、ドイツの『ターゲスツァイトゥング』、米国の「パブリック・ジャーナリズム」
この3つの事例を通して、ローカルとグローバルの視点を止揚し架橋しながら、<マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心>のテーゼへ具体的に接近していくことが目的なんですね。

事例研究で明らかになる6つの知見。
①マスメディアの周縁に生まれたジャーナリズムが「中心」とのインタラクションを拒絶し、その内側にのみ言論を発信することにとどまれば、中心との比較のなかでの「周縁」性というプロフィールさえ得られないばかりか、社会における「言論発言媒体」としての存在も危ういものとなってしまう。
②そうであるがゆえに、「周縁」ジャーナリズムもそれなりに力をつけて「中心」に働きかけていかなければならない。しかし「周縁」が体力をつけることは、すなわち「中心」へと近づいていくことを意味し、それは「周縁」に立地した自らのアイデンティティの源泉を枯渇させることにつながる。
③マスメディアの周縁に生きるジャーナリズムの存在は、たとえ苦境に陥っているとしても、それぞれに社会にインパクトを与えてきた活動である。その点で、これらは、周縁からではあるが、<マスメディア・ジャーナリズム>というものの制度的価値を社会に知らしめた存在である。
④社会変動によって「周縁」と「中心」は動きつづける。ある言論媒体が「周縁」から発生したとしても、社会変動との連関で、いつのまにか「中心」言論へと浮上していくこともある。そのとき媒体組織自体はアイデンティティ危機に陥る。
⑤「ジャーナリズム」という考え方は実は多様なる思想的裏付けによってさまざまな形であってもよい。にもかかわらず、「マスメディア」という、公共圏における有力な媒体システムの活動がその中心モデルとなっているために、それ以外のジャーナリズムの在り方についての議論が深まらず、「マスメディア周縁部分のジャーナリズム」の存在の影は薄い。今日の社会的空間において、「マスメディア」以外のジャーナリズム媒体が生きる場はますます狭まってきている。その活路、あり様も自らで模索していかなければならない。
⑥周縁性を特性とするジャーナリズムであっても、マスメディアを中心として展開される情報化社会の舞台からは降りることができない。ゆえにマスメディアの影響は周縁のメディアにおけるジャーナリズム活動に波及することが避けられない。その影響は、周縁部が弱小であるがゆえに、その組織運営に直接及ぶ。たとえばマスメディア企業がつくりだした受け手側の環境―視聴者や読者、聴取者の娯楽志向や細分化など―に対しては、周縁のメディアもその存続をかけて、否応なしに対応していかなければならない。

異なる文化における3つの事例に備わっていた共通の精神
ジャーナリズムを対立する意識の言論空間と見なしたこと。
②ジャーナリズムを歴史的な見地からイデオロギーの力学とみなしたこと。
③「現代の<政治的なるもの>」とは何か、ということを考え、社会に示そうとしたこと。

この「政治的なるもの」でパッと浮かんだのは北田暁大先生が『責任と正義』で「社会的なるもの」の肥大vs「政治的なるもの」の盲点化という構図で扱っていたのを思い出しました。

周縁、中心の話で問題というか、パラドクスを引き起こしてしまうのは以下の点なんですね
ジャーナリズムの核心は市民の周縁的言論活動にありながらも、それがマスメディアという社会の中心的言論活動へと吸収されていくことで、そのエートスを失ってしまう、という問題意識。
これはフェミニズムがぶち当たる「拡大と拡散のパラドクス」と同型の問題です。



あと、アメリカで勃興した「パブリック・ジャーナリズム」。
これを生み出した社会的背景として、 
①市民と政治との間のデタッチメント
②市民社会内部におけるデタッチメント
③マスメディアとオーディエンスとの間のデタッチメント
④ジャーナリズムとアカデミズムの間のデタッチメント

①に関してはパトナムが『孤独なボーリング』で指摘した「社会的資本(social capital)」の喪失が挙げられています。

このアメリカのパブリック・ジャーナリズムの事例研究のなかで気になったのはデリベラティブ・オピニオン・ポリング(DOP: Deliberative Opinion Poling)。市民参加型の世論調査ですね。
民主主義のデューイ的理解とリップマン的理解との間のジレンマと、「科学的」世論調査結果への疑問の双方を酌量した上で、一部の学者たちが実験的に導入してきた新しい世論調査のこと。
※デューイ的理解:万人の政治的平等を基本としており、そのことはつまり、政治的な能力及び関心を持たない「マス」全体を政治過程に編入することを意味する。
リップマン的理解:比較的政治能力のあるエリートが中心となって能率的に民主主義を運営していくという点で現実性を持つが、一部の選ばれた者に政治を委ねるという政治的不平等を前提としているために、畢竟「非民主的民主政治」という矛盾に陥ってしまう。

民主主義研究の泰斗ロバート・ダールはDOPに肯定的な向きを持っていて、「批判的大衆(critical mass)」の形成を促すとして、こう言ってます。
DOPの長所は、民主社会の理想―すなわち市民の理性的討論と市民全員の参加―が擬似的にせよ、両立されることであろう。
とまあ、なかなか結構、ルーマン、ハーバーマス、デューイ、リップマン、コミュニタリアニズム思想などなど、ジャーナリズム研究を飛び出して政治思想、社会学などを吸収しながら博士論文を書かれたということで、林先生自身が学際的に研究を進めていった軌跡が詰め込まれているような気がしました。
もちろん理論面だけではなく、実証性もしっかりとあって、当事者たちへのインタビューもふんだんにつめ込まれている。なによりも、日本語、英語、ドイツ語による徹底した文献購読、構成の仕方まで、マスター、ドクター問わず院生にはかなり示唆深い本ではないかと。逆にだからこそ、一般読者には少し近づきがたい一冊にもなっているのかなーと。
ここにも学術書vs新書、高級紙vsタブロイド紙ならぬ、壁がどうしても生まれてしまうのかなーという問題を見ずにはいられないというか、なんというか。

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