Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年6月24日月曜日

情報生存学


もんじゃを焼いていて、お客さんによく尋ねられること。
「やっぱり上手いですねー。どれくらいの割合で失敗するんですか?」
それで僕は「99.9%失敗しないです」つまり100回に一回失敗があるかないか、と答えます。
こういう類のシンプルなスキルは方法を覚えて、一度慣れるとほとんど、不可抗力ではない限り失敗はない。
よく芸能人が始球式でとんでもない暴投をしますよね。
あれはプロでは有り得ないです。ワイルドピッチはありますが、あそこまでの暴投はまずないです。「99.9%は」

情報には2種類あると思うんです。
知っているか知らないかで決定的な差が出るヴァイタルな情報。(All or nothingですね)
もんじゃを例にしても、方法を知らないと、いくら焼いても土手から必ずと言っていいほど、汁が溢れだします。
例えば、震災のときに◯◯◯という場所に救援物資が届いた。それを知っているか知らないか、これが生の分岐点になることもあります。
往々にしてこっちの情報のタイプは「情報へのアクセス」という問題と密接に関わってきます。デジタルデバイドの文脈で語られるのはこっちのヴァリアントです。

それで、もう一方がいわゆる「知識」と呼ばれる情報。
こちらはAll or Nothingというよりもコツコツと積み上げていき、有機的にその"知識"を蓄えていき体系化する。前者が生命の分岐点になるほどの重大性はないですが、社会では重視されることも多い。
んでこの知識も多言語学習の理論で言われるように「宣言的知識」「手続き的知識」とさらに細分化されていくわけです。
宣言的知識(declarative knowledge)は言葉で内容を説明できるもの。
手続き的知識(procedural knowledge)は言葉では説明できないけれども、確かに脳内にストックされている形式知。
アインシュタインに言わせれば、「お婆ちゃんに説明できなければ、理解したとはいえない」となるわけですが。

グローバルに瀰漫する不均衡の様相はさまざまあるわけですが、貧困一つとっても、最初に上げた情報のタイプが根っこにあると思うんです。ある意味でこの二つの情報は相互補完的なわけですが、なによりも生存に必要なのは前者だと思うのです。
それへのアクセスを得るための情報の情報をどうするか。
情報、情報、情報、現代社会で喧伝される「情報」。
考えれば考える程、たしかに「生存」との結びつきが見えてくる。
京大に去年、新しくできた大学院「総合生存学館」もこういった問題意識があったのは間違いないと思います。
東大の学際情報学府にせよ、"生存性"を取り巻く情報の在り方、扱い方、捌き方。
「情報格差(digital divide)」という言葉の裏にはかなり深刻な「生」の格差があることも見逃せません。
先進国に住んでいるとあまり見えてこないかもしれませんが、アフリカをはじめとする途上国ではかなり深刻な状況だと思います。
思い出すのはいつだったかの救済キャンペーンで、ハリウッドかなにかのセレブがヘリコプターから地上に哺乳瓶とミルクを投げばら撒いた。
ただ使途や用途が適切に伝えられることもなく、誤った使用法から衛生面での被害が噴出し、自体は悪化。ある者は闇市でそれらを売りさばき、結局は良心の押し売りになってしまった。
情報をめぐる生の政治、もうちょっと沈思してみたい問題の一つです。

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