Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年2月25日月曜日

配られたカード、振られていたサイコロ


とくに僕のように都内の私大に通っていると、価値観が揺らいでいき、「当たり前」が徐々に曲解されていきます。
暇さえあれば海外旅行、バイトは暇つぶし、派手なブランド服に身を纏い、お洒落なカフェでお茶。
とくに内部から大学へ上がってきた人たちは、総じて裕福な人が多い。

そんな環境で毎日、四年間も過ごしていれば、それが段々と日常の一風景、「当たり前」のこととして変換されていく。
ただ、立ち止まって考えてみれば、それは社会の一角、ほんの限られた上層の人々にのみ許された品行だということが分かります。


こーいったデータをみると進学率自体は右肩上がりですが、それでもまだまだ半分の人は大学には行っていない。
大学のキャンパスライフなんて、陽の当たった社会の一部分でしかないのです。
(『最強伝説黒澤』『闇金ウシジマくん』『賭博黙示録カイジ』などを読むと、社会の広さ、底の深さに気づかされます)

もちろん必死にバイトして、学費・生活費を工面している人もいます。
その一方、冒頭でいったような、いわば放蕩生活を享受している人もいるわけです。
別に、ぼくはその人たちをここで非難しているわけではないし、それを嘆いているわけでもないです。
ぼくはおそらくその中間にいるのではないかと勝手に思ってます。(今なんかは週6-7バイトで学費稼いでますが)


人はある程度、生まれた時点で人生を規定されます。
周知のように「どこの国で生を授かるか」「どんな親の下に産まれてくるか」あまりにも自分の選択の埒外にある決定的事柄に取り囲まれています。
いわば偶有性の大海に産み落とされた時点がスタートラインなのです。

ホリエモンは「日本で生まれた時点で、サイコロの目の6を引いたようなものだ」とかつて言っていました。僕もほとんど異論ありません。
仕事をしようと思えば、コンビニのアルバイト、運送、清掃、とりあえず何でもあります。
(アフリカの荒涼とした不毛の土地で生まれたならかなり状況は違ってきます)
とりあえずのスタートラインとしては、たしかに日本は世界を広量的にみるなら恵まれているかもしれません。

一見、親が裕福であるというだけで、高貴な生活を送っている人は、「ぬるま湯」に使っているだけのように思います。
そして他方、身を粉にしながら、勉学時間を削り(この時点で目的の倒錯というか、本末転倒というか、それでもそれが今の社会なんですが)バイトに勤しむ人を頑張り屋さん、健気な人のように映るかもしれません。
配られたカードは変えられない。どうやって手持ちのカードで楽しむか考えよう。(We cannot change the cards we are dealt, just how we play the hand.)参照元
この言葉が意味するように
上をみて嘆息を吐いて、腐るよりも、自分が与えられた環境の中でもがいていく、そして自分が望む新たなる「環境」を切り拓いていく(carve out)していくことに専心すること。
まずは背伸びをせずに、自分自身の与えられた場所を確認して、目指す場所に向かっていけばいい。最近、そう思うようになりました。

ここのところ、バイトを二つ掛け持ちし週6-7で労働し、立ち止まって思考する時間さえ確保できずに腐りかけていましたが、今はわりとその中で楽しみながら試行錯誤に明け暮れています。

仕事に追われ、体にガタがきて、歯を食いしばらないければいけないときは、「疾風に勁草を知る」(激しい風が吹いて初めて強い草が見分けられることから、困難に遭ってはじめてその人間の本当の価値、本当の強さが分かるということ)という言葉やナポレオンの「勝利は忍耐に付属する」(Victory belongs to perseverance)という言葉を糧にしています。

いずれにしても向こう一ヶ月はもうちょいこの生活を続け、インドへの瞑想・放浪の旅へでるつもりです。

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