Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2013年1月27日日曜日

映画『愛のむきだし』


バチコンきましたね。。
ここのところ映画を劇場やDVDで観る機会がやたら多くて、その度だいたい途中で少し寝落ちしちゃうのがパターンだったのですが(先日友達にゴリ押しされた観た『リリーシュシュのすべて』も爆睡してしまいました)、今作は目が釘付けでした。

時間は4時間と長丁場なのですが、体感はそれよりぜんぜん短くてほんとあっという間でした。DISC1はアッパーで、DISC2はダウナー。
このアップ&ダウンはすごい。その狭間にいるのが、満島ひかり演じるヨーコ。

主演はAAAの西島隆弘。この時点で観る気を失くす人もいそうなのですが(僕もそうです)、鑑賞してみると、ところがどっこい、バイアスふっ飛ばされます。
園子温監督は演技指導が厳しいことで有名なので、きっと徹底していたのだと思います。

満島あかりも圧巻の演技だったんですが、個人的には渡部篤郎が一番目立ってました。

登場人物のそれぞれがトラウマティックな体験を抱えていて、そうした人々が一点へと収束していく。
と、ありがちなストーリーラインかと思いきや、DISC2に入った途端、間髪を入れずにカタストロフィが始まる。


テーマは「愛」それも、むきだしの「愛」。

コリント書第一の手紙の第13章からの引用をヨーコがすらすら叫ぶ(3-4分くらいの圧巻のシーン)
たとえ人々の言葉、天使たちの言葉を語ろうとも、愛がなければ、わたしの言葉は騒がしい銅鑼、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物をもち。あらゆる知識と奥義に通じ。必要とあれば山を揺るがすほどの信心を持ち合わせようとも。愛がなければ、無に等しい。
持てる全てを他者に与えようとも。己の身を燃やし尽くそうとも。そこに愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強く、情け深く。妬まず、誇らず、己惚れず。礼を失せず、利を貪らず、怒りを抱かず。不当に扱われたことをいつまでも恨まない。そして不義を喜ばない。愛は、真実を喜ぶ。
愛は、諦めないこと、信じること、希望を持つこと、耐え忍ぶこと、すべてにおいて過たず成し遂げる。 
愛は永遠である。しかし預言は人に霊感を与えるも、廃れてしまう。異言による賜物も、いつか已んでしまう。知識は、いつかは過去のものとなってしまう。私たちの知識はしょせん断片にすぎない。預言もまたしかり。もし完全なるものが到来したならば、それら断片的なものは廃れてしまうだろう。 
私が幼子だったとき、わたしは幼子のように語り、幼子のように感じ、幼子のように考えていた。だが今や私は大人となり、幼子であった頃のやり方を棄てた。 
私たちは今、鏡に映った朧な像を覗いている。だが来るべき時が来れば、私たちは真の像と正面から対峙することになろう。それゆえに、「信仰」「希望」「愛」。この3つはいつまでも残る。このうち最も大いなるものは、「


きっと人は、心の底から信じられるもの、むきだしの愛を預けられるものを求めて彷徨っているだけのか弱い存在で。
それがキリスト教でも仏教でも、新興宗教であろうとも。
盲信できるもの。むきだしの愛をぶつけられるもの。
生きていく意味を与えてくれるもの。
だから真理なんてものを探り当てようとすることがナンセンスなんだと思う。

洋楽フリークが心の何処かでビジュアル系バンド大好きな人を見下していたとしても、彼らもまったく同様のことを思っていたとしたら、そこに優劣なんてあるはずなくて。

唐突ですが、ヘーゲルの思考の枠組みを援用すれば、それが分かりやすいんじゃないかと。
彼は「矛盾」、「対立」、「差異」を峻別しました。

資本家と労働者の間に矛盾があっても、協同組合をつくることで、資本家と労働者の転換が可能になる。だから矛盾は解消できる。
対立は、一方がもう一方を完全に絶滅することで解消できる。
ところが差異は解消不能である。たとえば議論する相手から、「これは趣味だよ」と言われたら、もうその先には介入できない。趣味は差異だから。差異は解消できない以上、どうしても自分の立場を決めなければならない。だから、どっちの立場に立つかによって、世界は違ってみえる。



信仰だって、まったく同じ事だと思ったわけです。

けっきょくそーいったすべてを貫くものは「愛」以外にありえないわけで。




完全主観採点:★★★★★

2013年1月24日木曜日

映画『テッド』を観て、『ハングオーバー』を想う


字幕、吹き替え悩んだあげく吹き替えでみることに。
普段、吹き替えで映画をみることはまずないんですが、有吉が声優だったということで。
有吉だい好きなので。映画におけるキャスティングとかってマーケティングがいかに重要か感じます。
平日の昼間なのにかなり観客の入りは良かったと思います。

R-15指定ということで、ある程度は卑猥なものを予期していたのですが、予想以上に放送禁止用語のオンパレードでした。

有吉もドンピシャにハマってました。
普段の有吉とほとんど変わりません。


コメディといえば金字塔はやはり『ハングオーバー』で、その壁はそうそう簡単には越えられないかなあというのが率直な感想。
コメディを観る度に、あらためて『ハングオーバー』の偉大さに気付かされるというか。
アメリカで好きな映画聞くとだいたい『ハングオーバー』って返ってきますからね。

ただ『テッド』の場合は純粋にテッドがキャラ立ちしているので、そこが女性ウケするのかもしれません。猥褻一辺倒だと客層が限られてきちゃうので。
興行収入も順調みたいだし、かなりの高確率で続編でると思います。

ところで『ハングオーバー3』はいつ頃の公開になるんでしょうかね。



【参考】
あいつらが帰ってくる! 『ハングオーバー!』3作目の舞台は再びラスベガスに

2013年1月23日水曜日

存在証明としての『卒論』


昨日、無事に卒業論文を執筆完了し、提出することができました。
論題は『「想像の共同体」リベラル・ナショナリズムの視角からの再検討―差異の世界における正義の探求』です。
(なぜこういったテーマを選択したかについては、後述します)
自分のための備忘録のためにも連々思うところを書き殴っておこうと思います。

i. 卒論独特のハードさとその対価


正直、執筆途中でいくども挫けそうになりました。なんてゆう大風呂敷を広げてしまったのだろうと。(これでもまだ絞った方で、当初はこんなモノにしようかと思っていました)
でも書き終えた今、沸々とした充足を感じています。

はっきり言って、卒業論文はこれまでの課題とは比べ物にならないほどの苦行でした。
大学で課される課題にはあくまでも「カクカクシカジカ」の課題内容が明示されています。アメリカ留学中に書いたターム・ペーパーも分量という意味では日本とは比肩できない過酷なものでしたが、教授が求めているものを言われた通りに提供すれば、それなりの評価を受けることができるのです。
卒論をハードたらしめるのは、課題設定から自分で行わなければならないということです。

力を抜こうと思えば、いくらでも抜けるとは思います。
本やウェブからササッと要点やアイディアを拝借し、パッチワークのように配列するだけですから。
そして「卒論代行業者」なるものまでありますからね。。「意思あるところに道あり」ならぬ「ニーズあるところにビジネスあり」のような。倫理的にグレーゾーンだと思いますが。。

しかし、①トピック選び②課題設定にこそ、個人が身に付けるべき能力の源泉があるのだと思うんです。③文献読込④執筆は副次的なものだと思います。(もちろん一筋縄ではいかないのですが)

明確に定まった期限の中で、もがきあがき、自分の限界突破をしていかなくてはならない。背中にのしかかる重圧。
なんだか、受験期と同じような感覚でした。
強制装置の中に身を置くことは、やっている最中では拷問のようでも、終えてしまうと解放感以上に達成感を得られる気がします。
「もう二度と受験はしたくないけど、人生一度の中で経験しておいて良かった」というような。
受験勉強はある意味で易いのかもしれません。レールに沿って(たんたんと参考書や過去問を消化していく)
論文を書くということは(ある程度の定型があるにしても)自らでレール自体を敷設しなくてはならないのです。

そもそも日常生活で自ら、自分自身に、このような緊迫したシチュエーションを課してストイックに打ち込めるほど精神的に強靭な人もなかなか居ないのではないかと思います。
だったらいい機会だと思って遮二無二に取り組んでみるほうがよっぽど得策なんじゃないでしょうか。

ちなみに「思考することは、相当カロリーを消費するらしいです」。(ソース

ii.敵は知の巨人ではなく自分自身


学部生の論文にそれほど教授だって期待はしていないでしょう。四年間で身に付けられる知識には限りがあるからです。そう言う意味で、あくまでの卒論は自分との闘いなのだと思います。少なくとも僕はそう自分に言い聞かせていました。

脳ミソからポタポタ充溢する断片を穴だらけの網ですくい取っていく孤独な作業。(収集力のしぼりを最大出力に)
自分自身との繰り返されるディスコース、ダイアローグ。
そもそも僕らが既存の理論、知のフロンティアに付け加えられることなんて、雀の涙にも満たないほどのものだと思うんです。

知の巨人たち(たとえばカントやルソー、スピノザからフッサール。ウィトゲンシュタイン、フロイト。ヘーゲル、ウェーバー、マルクス)が積み上げていった思考、峻厳にそびえ立つ山々を前におののき、閉口するしかないんです。
彼らの著作に真っ向面から対峙しながら、己の無知を痛感しては謙虚さを学んでいく。
一歩一歩、這いつくばりながら、ほふく前進で荒野を進んでいく。
時代を越えて彼らと対話できる、そこに読書の神聖さが蔵されている。

それでいて、難解な本も読み進めることそれ自体は至極簡単なんです。
読んだ気になればいいんですから。
なにより、それを自分のペーパーに落とし込むのが晦渋で痛みを伴う作業なんです。
それでも「ただ本を引用しただけ」だとか「ほとんど自分の言葉で語れてない」だとかばかりを憂慮する必要もないと思います。
まず言葉なんて誰のものでもないからです。カントだって、ルソーだって、彼らの前の時代から語られていた先輩の言葉を借りていただけなのだから。
なによりも滔々と先代から受け継がれてきた「知」の源流から水を汲み取ろう、吸い取ろうとするその姿勢が大事なのではないでしょうか。(これについてはまた別の機会で違うブログエントリーで考えてみたいです)

iii.意味がありそうで意味がないティップをいくつか


机に向かって、幾度あたまを抱えたことでしょう。
それでもまだまだ僕らは恵まれていて、パソコンで書くからデリート、リライトおちゃのこさいさいです。手書きで書いていた時代の人に心から敬服します。(今でも手書きで書くところももちろんあると思いますが)
とはいえ、卒論を書き始めてから折り返し地点でデータを消失し、バックアップをとり忘れるという悲劇に見舞われたのでした。愚の骨頂ですね、はい。
それ以降はDropboxに常時バックアップをとるようにしました。(ちなみに「卒論 消えた」でツイート検索をかけると戦々恐々とします)

執筆でもっともクリエイティビティが問われるのは個人的に「構成」ではないかと思っています。構成は読者のみならず、筆者をも導いてくれるロードマップなのではないかとの思いに、執筆中おもい当たりました。
逆に言えば、構成こそ固まれば、後は書くのみなのです。


僕はWordではなく、Pagesで書いていました。操作性も体裁も断然好きです。
図を用いるときは、Pages内で作成するよりもKeynoteで作成したものを画像保存してPagesにまた持ってきたほうが便利だし、楽です。(※後から図の中の文字を編集することはできません)これについては「Keynote: 画像作成もできてしまう最強プレゼンアプリ」にあるインストラクション動画が参考になります。(@HIRO_YUKI_いろいろアドバイスありがとうございました)
あとはPagesで作成したものをPDF化して印刷すると上手く印刷されないことがあります。その際はページ自体を「画像化」するといった解決方法があります。詳しくはコチラを参照。

英語文献参照される方はGoogle Scholarかなりオススメです。
にしても今じゃKindleがあるから洋書へのアクセシビリティは昔とは比べ物にならないですよね。英語の書籍の場合、かなり電子化すすんでますから。iPadでもiPhoneでも読めます。

という訳で、この一ヶ月くらいはバイトもせずに卒論に打ち込んでいました。
最後の三日間くらいは椅子に座り込み、机に張り付いていたので腰が砕けかけました。笑
同じ姿勢でずっといるのも不健康だと思い、「体が硬い人のためのヨガ」という本を買い、一人で実践していたら、だいぶ柔らかくなりましたよ。笑



iv. ぼくの論文について
これは読み飛ばしてもらっても、斜め読みでも構いません。
目次はコチラ。構成としては、「想像の発明」→「想像の更新」→「想像の先にあるもの」と一応、それぞれがそれぞれへの橋頭堡となるような経路をたどるようにしました。

特に一章で『想像の共同体』二章で『ナショナリティについて』三章で『国際正義とは何か』がとりわけ中心的なテクストとなりました。
参考文献のリストはコチラ

論文は70頁を越え、文字数も8万弱と膨大なので、ここにすべてを掲載することはできないんですが、序章、終章だけをかいつまんだものだけ。(とは言ってもかなりの量なので、興味のある方だけ文字を大きくしてみてみてください。Macであれば⌘と+です)
序章―パラドキシカルな世界のなかで

 グローバリゼーションが加速度を断続的に逓増させながら進行している。ところが、世界は単純に収斂しているというよりは、同時に分裂するという背理の様相を呈している。このパラドキシカルな現状をいかに捉えるのか。近代以降、「世界」の中心的役割を担ってきた「国家」はいかなる存在に変容していくのか。本論の問題意識はこの点に発露を持つ。
 「地表に国境も国家もなかった」というのは宇宙飛行士の常套句である。国境も国家も所与の被造物などではなく、歴史的に段階を経て構築されていった政治的人工物であることを我々は知っている。「この限られた想像力の産物のために、過去二世紀にわたり、数千、数百万の人々が、殺し合い、あるいはみずからすすんで死んでいったのである」とB・アンダーソンは凄惨な戦禍の原因としてネーションを名指しし、その底流にあるのが「想像力」であると喝破した。リー・クアンユーは「文化は宿命である」といい、アマルティア・センは「アイデンティティは選択可能であること」を強調する。私は両者の主張に部分的な正当性をみる。アンダーソンが論じるようにネーションが「想像力」を機軸に展開されるものであったと措定しても、それが人びとのアイデンティティを照射し、生における決断や行動に与えている影響には無視できないものがある。ネーションには「虚構性」「物語性」を超越した意義があるのか(①)。センの主張(アイデンティティは理性によって選択可能である)を吟味し、アイデンティティが多面的かつ重層的に成立するものであるとの前提の元、「ナショナリティ」は人びとの中でどのような位置・規模を占め、どれほどの実体性を持つのか(②)。
 ①~②の基本的クエスチョンに、アンダーソンの『想像の共同体』をリベラル・ナショナリズムの視点から批判的に再検討を加えた第一章(「想像」の発明―『想像の共同体』の批判的再検討)とD・ミラーの『ナショナリティについて』を中心テクストにリベラル・ナショナリズムの射程と可能性を検討した第二章(「想像」の更新―リベラル・ナショナリズムがもたらすブレークスルー)で回答を試みる。
 一、二章を踏まえた上で、コスモポリタニズムとナショナリティの共存性についても考察したい。間断なく広域的にグローバリゼーションが進行・滲透するなかで、ナショナリティは衰退または変容しているのか、していくのか。また、コスモポリタニズムとは本質的に相容れないものなのか(③)。「ナショナリティの原則」を基盤に、差異からなる世界の中で探求されるべき正義の形態とはいかなるものか(④)。
 ③~④の基本的クエスチョンにD・ミラーの「弱いコスモポリタニズム」やM・ウォルツァーの「広く薄い道徳」などに手掛かりを求めながら事例を交えつつ論じた。①~④の基本的クエスチョンの経路はそれぞれが次の疑問へと架橋するようなプロセスをとっている。
 高度にグローバル化を遂げた世界で台頭する多文化主義、揺らぐアイデンティティ、このような文脈におけるナショナリティ、ひいてはナショナリズムの位置を確認し、『想像の共同体』から約三十年が経過した現代に構想されるべきナショナリズム論を導出することが本論文の企図するところであり、客観的意義であると思われる。 
終章―よりよき世界をデザインすること

 世界は現在、パラドキシカルなシチュエーションにある。これが本論文の問題意識の発露であった。グローバル化が進展して久しい今日にこそ、人々の間に連体意識をもたらし、再分配的福祉や万人にアクセスのしやすい文化環境を提供するナショナリティの機能を再考する必要があるのではないかとの考えから、「ネーション」を始原から見つめ直し、「差異の世界における正義」を探求してみたいとの思いに至った。

 時折、ブラウン管を通して目の当たりにする、同年代と思しき少年・少女が栄養不足からか、痩せ細り荒野の上に横たわりながら弱々しくカメラのレンズを覗き込む虚ろな眼球が幼心に私の脳裏に刻み込まれた。彼らは望んで窮状の中に身を置いているのではないし、私は自分の意思でこの飽食の日本に産まれ落ちたわけでもない。彼も彼女も私も、この大いなる偶有性の大海に生を授かり、「国境」という作為的に敷かれた分断線を境に運命を規定されていることに疑義を抱いたのであった。
 このような曖昧模糊とした世界に対する不信感が、常に私の心の片隅にもたげていた。「国境」の内と外の世界を間近に生活したアメリカでの二年間の留学体験を通じて、私の関心は更に深まっていった。大学において国際政治の学びを深める過程で、「グローバルな不平等」や「構造的不均衡」が私の想像を遥かに越える根の深い問題であることを痛感した。
 そして、本論文を書くきっかけを与えてくれたのはアンダーソンであり、ミラーであった。彼らの怜悧な洞察は「正義」や「国家」に対する思考のフロンティアを拓いてくれた。アンダーソンは「想像」を媒介にネーションが成立し、国民間の紐帯を醸成していくプロセスを鮮やかに描き出し、ナショナリズム史にパラダイムシフトを巻き起こした。ただ、そこでは「ネーション」には実際にどの程度恣意性を越えた「実存性」があり、私たちの生活を規定しているのかということまで踏み込んだ議論がみられなかった。そこで次にヒントを求めたのがミラーをはじめとしたリベラル・ナショナリストの理論である。
 ミラーはナショナリティのみが利害、イデオロギー、社会的理想、教育制度、世代、文化的出自、社会階層などの点で異なる人々が、差異を越えて継続的に協同できる安定的紐帯を私たちにもたらすといい、「ナショナリティの原則」が国内社会のみならず国際社会をも規定していることを説得的に論じてみせた。
 コスモポリタンらは高度にグローバル化を遂げた今の世界にあって、「ナショナリティ」を越えた「グローバルな義務」に私たちは向き合っていかなければならないという。一見、このような正義感に満ち溢れたような力強い決意・要求に私たちは首肯しそうになる。ただ、グローバル化時代にだからこそ、ナショナリティの自覚化および再活性化が求められるべきなのではないだろうか。
 ミラーが構想する枠組みで目指すべき国際社会とは、各ネーションが自決権を持ち、各々の最も馴染みやすい社会正義の構想を実現しうる環境が整備された場である。国際社会における義務とは一義的に、基本的権利を侵害されたり搾取を受けたりしている人の状態を改善すること、また、逆境に陥いり恵まれないネーションに対し、自決し独自の社会正義構想を実現することを目指すことを可能にする機会を与えることなのである。無自覚なコスモポリタニズムや無作為な援助は、どんな挑戦に直面しているのかを自分で決定することこそ、挑戦の媒介変数であるという視点を見落としている。
 ウォルツアーが「分離・離脱、境界線の変更、連邦化、地域的な自治あるいは機能的な自治、文化多元主義。それぞれの場所のために沢山のデザインがあり、たくさんの政治的な可能性があるのであって、あれやこれやの場合にその一つの選択をしても、それが必然的に他の全ての場合と同じ選択になると考える理由はない」というように、「正義」も「道徳」もその多様性を見失ってはならないのだ。鳥瞰的かつ広量的視野に立脚して世界はデザインされなくてはならない。
 すなわち、焦眉の急で取り組むべきはナショナリティの解消を目指すのではなく、ナショナリティの在り方を文脈に合わせて批判的に検討し、より公正な形態を求め、ナショナリティおよびその政治の再構成を試みる作業なのではないかということだ。それは、跳梁跋扈するグローバル規模で蔓延する不平等を等閑視することではない。
 まず倫理的な構想・合意があってはじめて、国際的な制度や国際的な公共政策をはじめとした正義に適ったグローバルな枠組みが構築できる。「もし正義が滅びるならば、人間が地上に生きることにもはや何の価値もない」というカントの言葉は勇気を与え、私たちを前進させてくれる。想像を媒介に「国家」私たちは国家を創り、維持し、安寧を享受してきた。アイデンティティの偶有性を相互に受容し合い、想像の範囲を拡張・更新することから「差異からなる正義」は創造へ向かっていくのではないだろうか。

v.その他、雑記
卒論の休憩中は数分の場合はタバコを吸うくらいでしたが、まとまった時間休憩するときや「卒論を今日は切り上げる」と決めたらベッドに横になりながら、iPadでひたすらYoutubeにかじりついていました。動画をみながら寝落ち、気持ちいですよね。

文献読込期間はひたすら「ガキ使」「ダウンタウン」関連を。執筆期間は「有吉」関連をシラミ潰しにみました。モチベーション維持のためにも息抜きも必要だと思います。
そして挫けそうにになったら魔裟斗のドキュメンタリーをみていました。笑

あとなぜかKyleeにハマッていました。ぼくJKみたいですね。笑
スタンフォードの学生だなんて知らなかった。

最後の追い込み期間はべつに禁酒を意識したわけではないのですが、お酒を飲みませんでした。だから今日、提出して、ゼミのみんなで小打ち上げみたいな会でビールを飲んだときは気絶しそうな程美味しく感じました。
「世界一のお酒を見つけました。それは必死で働いたあとのお酒です」というミスチルの
なにごとも一定の期間を空けるとその威力、ありがたみに思い知らされます。
禁煙失敗して久々に吸うタバコ、高校生のとき大好きだった音楽をひっさしぶりに聴いたとき、アメリカの長期留学を経て食べる日本食(特にラーメン)。なんだってそうです。
なにか自分で決めてそれをモチベーションに頑張るのも一つの方法ですよね。
ゼミの子はご褒美にマッサージに行くことを決めていたらしいです。

ぶあーっとここまで一気呵成で書いてしまいました。
卒論を書いたおかげなのか、この分量でも一気にほとんど立ち止まらず書けました。

卒論も終わったので思いっきり運動したいです。それに観たかった映画をみて(早速、今週"TED"と"LOOPER"みにいくつもりです!)、小説もたっくさん読みたい。お酒もグビグビ。

【参考エントリー】
そういえば去年、こんなのも話題になってましたね。

最後に同じゼミで共に卒論を提出した方が管理するこの人から一言いただきましょう。

(@Itagaki_dead)

2013年1月16日水曜日

読書『リベラル・コミュニタリアン論争』アダム・スウィフト、スティーヴン・ムルホール著


ゆっくり読んでいたらかなりの日数を要していました。
本の構成としてはリベラリズムの旗頭とされるロールズの一連の著作群(『正義論』を中心)に対するコミュニタリアンの批判とそれに対するリベラリズムの応答。
この行ったり来たりを詳細に検討したもの。政治思想に関わらず、哲学、倫理学、はたまた経済学まで、テーマ自体がかなり分野横断的なので学部生も院生も一読の価値があると思います。

コミュニタリアンとしてサンデル、マッキンタイア、テイラー、そしてウォルツァー
リベラリストとしてロールズ、ローティ、ドゥオーキン、そしてジョゼフ・ラズ。



【基本的なコミュニタリアンの論旨】
社会的紐帯は、他のたんに個人的な目的を達成するための手段としての価値を超えて、それ自体として価値がある。
サンデルが「原初状態の秘密」として描き出した部分が面白かった。 
原初状態の秘密ーそしてその正当化を生む効力の謎ーは、そこにいる当事者がなすことではなく、むしろ理解することのなかにある。問題なのは、かれらがなにを選択するかではなく、なにかを理解するかであり、なにを決定するかではなく、なにを発見するかである。原初状態において生じていることは、結局のところ契約ではない。それは、ある間主観的存在が、自己意識に到達することなのである。
【テイラーのコミュニタリアン的人間観】 
人間とは、自己解釈する動物であり、人格としての自分のアイデンティティが、自分の帰属する言語共同体を基盤としてそこから導き出せる善の構想への方向付けと愛着とに依存している生き物に他ならない。


【「対話の網の目」】
わたしが怒りとはなにか、愛とはなにか、不安とはなにかといったことを学ぶには、われわれにとってーつまり、われわれの共同体を作り上げている関係性の網の目のなかで特定の役割なり地位を有する人びとにとってーそうしたことがらをがどんな意義をもつのか、他者と経験を共有するほかないのである。
【コミュニタリアニズムのリベラリズムに対する攻撃】 
リベラリズムのように個人主義的な政治の伝統は、すなわち、一定の自由と平等に対する一人一人の人間の権利に重きをおく政治の伝統は、それら諸権利を保護することへの関心を表現するにしても、それら諸権利を下から支えている社会構造をも同時に保護する必要性を無視していたり、そのような必要性と矛盾したりする形でそうした関心を表現してはいけないことになる。
(五つのアジェンダ)⇒ 
①人格の構想
②非社会的個人主義
③普遍主義
④主観主義か客観主義か
⑤反完成主義と中立性




個人的に響いた箇所

<どんな挑戦に直面しているかを自分で決定する>ということが、ほかでもないその決定するという挑戦の媒介変数なのである。
あとコミュニタリアニズムを理解(grasp)するのに役立ちそうなドゥオーキン巧い比喩
オーケストラが集合的な生を有するのは、その構成員が、そのなかで自分たちが構成要素としてあらわれる、人格化された行為の単位(unit of agency)を承認するからである。
⇒ある共同体の共同的生は、さまざまな実践や態度によって、集合的なものとして取り扱われる諸活動を含む。それらの実践や態度が、一つの集合的行為者としての共同体を創造するのである。
ラズのリベラリストらしい主張としては 
自律的であるために、また自律的な生を営むために、なくてはならないのは複数の選択肢である。人間にはさまざまな能力を行使したいという生得的な衝動がある。複数の選択肢があると、ひとが生涯にわたって持続する諸々の活動が、全体としてみれば人間のありとあらゆる能力の行使になるし、またどれか一つの能力をあえて発達させないことも可能になるのである。
なかなかヴォリューミーなので、ゆっくり味わって読もうとすれば一日では厳しい分量です。「リベラルvsコミュニタリアン論争」の既知の知識がないと尚更。
学部生の教科書としてはかなり良書だと思います。 



その他のメモ

2013年1月15日火曜日

映画『HUNTER×HUNTER 緋色の幻影』


マンガ自体はかーなり読みますが、普段アニメの映画をスクリーンで観ることはなかなかありません。
AVATAR」とか映画館でみてこそ迫力のあるものは大体足を運ぶようにはしているのですが。
今回、わざわざスクリーンでみようと思ったのは『0巻―クラピカ追憶編』もらえるからというだけなんですが。


内容自体も良かったです。旅団キャラがぞくぞく登場するので。


去年、12月には31、32巻と立て続けに発売されたので、この調子で冨樫さんには頑張って貰いたいです。
物語も収束に向かいつつあるような印象なので。(とは言いつつ、すべての伏線を回収できるかは大いに疑問あるますが)

「ハンターハンター」といえばコレが秀逸です。

2013年1月12日土曜日

映画『GO』


行定勲監督、宮藤官九郎脚本、窪塚洋介主演。
これで面白くないはずありません。出来レースですよね。笑
物語の冒頭というか、流れ方はどことなく『トレインスポッティング』のような感じ。

窪塚洋介の演技はやはり唯一無二。『ピンポン』も『池袋ウエストゲートパーク』も。

在日をテーマにした映画でパッと思いつくのは『パッチギ!』ですが、個人的には今作の方がツボでした。
なんといってもセリフの一つ一つが響く。
僕が所属するゼミでは「アイデンティティ」がテーマなのですが、それこそゼミで観るのもありなくらい、「帰属とは何か?」を考えさせられる映画。

前から興味はありましたが、一層落語に興味を持ったし、シェイクスピア全集も読みたくなりました。アメリカにいた時に英語の授業で『マクベス』を読んだことがあるだけなので。取っ掛かりに『ハムレット』から読むつもりです。


原作もKindle版であるみたいなので、時間があれば読んでみようかと。

2013年1月9日水曜日

Nothing Helps / ONE OK ROCK <和訳>


なにも助けてくれやしない
今は止まれない
俺ら自身でやったのさ
誰でもない
お前のせいさ、お前と一緒にここにいるのは

もっとくれ
もっとくれよ

オーイエー、オーケー、悪い日だってあった
心にとらわれて、自分が誰かだって確かじゃない
なにも思い通りになんかいかない

ステージに立って、分かったんだ
どうしてここにいるのか
俺は声になる
声を持たぬ者らのために
そして忘れずにいるんだ
通り過ぎた途を

なにも助けてくれやしない
今は止まれない
俺ら自身でやったのさ
誰でもない
お前のおかげだ、ここまで来れたのは
次から次へと浮かぶ歌
間違いを書き起こして
他に誰がいる?
全部お前のおかげだ
俺自身の途を見つけることができたのは

これから先も知るだろう
いつの日もいつだって、すべてのショーで
イノセンスを持ってベストを尽くすこと
一瞬にして失ってしまうかもしれないから

ずっと覚えてるもんがある
どうやって険しい岩の途を歩いていける?
決して忘れない
知ることができないことを

行かなくちゃ

なにも助けてくれやしない
今は止まれない
俺ら自身でやったのさ
誰でもない
お前のおかげだ、ここまで来れたのは
次から次へと浮かぶ歌
間違いを書き起こして
他に誰がいる?
全部お前のおかげだ
迷路の中で自分自身の途を見つけることができたのは

俺は俺だ
喉につっかえてる
言葉が出てこない
なんてこった
どうしてただ立ち去ることもできない、すべてを捨て去って
すべてを解き放って

またお前の顔をみて、思い出すんだ
俺がどうしてここにいるのかを

なにも助けてくれやしない
今は止まれない
俺ら自身でやったのさ
誰でもない
お前のおかげだ、ここまで来れたのは
次から次へと浮かぶ歌
間違いを書き起こして
他に誰がいる?
全部お前のおかげだ
俺自身の途を見つけることができたのは
他の誰かが
いつの日かやってきて、俺の場所を奪うだろう
そうやって物語は続いていく

お前のためにできる全てのこと
お前が俺にしてほしい全てのこと
お前が目にできる全てのもの
いつの日かやってくるだろう
そうやって物語は続いていく
元詩


【和訳】
Deeper Deeper
Clock Strikes

Deeper Deeper / ONE OK ROCK <和訳>


もう一段上
時間がかかってる
いつだって掘ってる
たのしんでるんだ
どこにいたって歩き始めるんだ
どこにいたってグルグル回るんだ
俺の知ってるところに立ち戻ってくる

深く、深く、より深くへ俺らは行くんだ
孤独を感じても、シンプルさ
解き放て
薄暗い、薄暗い、薄暗い、光は仄暗い
だけどブラインドじゃない、シンボルがみえる
見せてやれ
力強い物語
俺から隠すな
いつだって人は迷うんだって
気付いちゃったって知らんぷりしよう
そしてグッド、グッドデイズ

僕らは生まれてからso多くを学び
死に近づくにつれ多くを忘れ
気付いた時にゃもう灰になってる
生きた証を残しておくにはモノじゃ無くて

「誰かの記憶に残るような人生をお薦めします」

深く、深く、より深くへ俺らは行くんだ
孤独を感じても、シンプルさ
解き放て
薄暗い、薄暗い、薄暗い、光は仄暗い
だけどブラインドじゃない、シンボルがみえる
見せてやれ
力強い物語
俺から隠すな
いつだって人は迷うんだって
気付いちゃったって知らんぷりしよう
そしてグッド、グッドデイズ

物事にはsoどんな時だって

オマケのノビシロがついていて!
何かを築きそして変えて越えて!
奇跡という名の必然を繰り返して!上へ

俺らは決して、俺らは決してここで止まれない

乗り越えるため、やらなきゃならないことをやれ

へたれてる時間なんて微塵もないぞ
後悔しないように生きる
そんな風に生きたって後悔は残るのさ
長いものに巻かれて終わる?
いやそれどころか巻いて終わるのさ
予測すらできやしない猛スピードで
ほらグッド、グッバイ
元詩


【和訳】
Clock Strikes
Nothing Helps
いま世界で一番有名な日本のロックバンドはONE OK ROCKじゃないだろうか

2013年1月8日火曜日

映画『人のセックスを笑うな』


たしか公開されたのが、高校生のときだったと思うんですが、その時以来また観ました。
映画の前に原作も読んでて、山崎ナオコーラさんの。


松山ケンイチも永作博美も、忍成修吾、蒼井優もこれでもかってくらいゆるくラフな演技、おそらく原作の雰囲気を反映させたかった監督の意向だと思うんですが。
ナイーブな演技で構成されてて撮影感がほとんどないんですよね、それで映像の流れ方も冗長でスロー。

地方の芸大で臨時の講師とロマンス、しかも永作博美。そりゃこうなるわな。

2013年1月6日日曜日

映画『バベル』


多国籍映画。
特定のメイン・ステージがなく、同時進行で物語が進行していき、一点に集約・交叉(congregate)していく。
この手の複数物語が一点に終着していくストーリーは大好きなんですが、たとえば小説でいえば村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』とか高野和明さんの『ジェノサイド』もそうですよね。ただ映像化するのが非常に難しいんですが。



モロッコで旅行をする夫妻、東京で暮らす聾啞の少女とハンティング好きな父親、メキシコに息子の結婚式に出かけるベビーシッター。

世界に点在した人々がひょんなことから繋がりだし、連鎖していく。
偶有性が小爆発を繰り返し、人々の運命を翻弄する。
「魔が差した」や何の気ない行動が人を殺め、人生を劇的に歪曲する。

『バタフライ・エフェクト』よりも、より直截的な人とひととの歯車の連なり。



エンディング含め、賛否分かれそうですが、個人的にはかなりツボな映画。

2013年1月5日土曜日

映画『僕たちは世界を変えることができない。』


「わたしたちのすることは 大海のたった一滴の水に すぎないかもしれません。でも その一滴の水があつまって 大海となるのです」
というマザー・テレサの言葉。この信念に突き動かれされて、行動にでる主人公、向井理演じる甲太。 
この話は実話に基づいたものだそうで、当時医学部2年生だった葉田甲太さんがモデルとなっています。小学館からはノンフィクション書籍もでてます。


モラトリアムを享受する大学生が一度は抱くアンニュイ。
でもどれだけのひとがアクションに打って出るだろう。

ポル・ポトの独裁で傷ついた人々、いまなお多くの地雷が埋まるカンボジア。
多くの子供達が労働を余儀なくされ、満足な教育を受けれずに入る。


ぼくが実際にカンボジアを訪れた時に、"キリング・フィールド"で撮った一枚

クラブイベント、バイト、募金、あらゆる手はずを尽くして目標金額150万円の到達に向けて奔走する。

それでも感じずにはいられない、虚無感や無力感。
(カンボジアで多くの子供達に囲まれ、一ドルをせがまれる)
振り払うこともできずに、同情から渡すその一ドルが何の解決にならないことも分かっている。

どこに意味を見出すか。
「受けるよりも与えるほうが幸福である」という聖書の言葉。


生まれたところや、皮膚や目の色で、一体この僕の何が分かるというのだろう?

「僕たちは世界を変えることができない。それでもあの日、あの瞬間、僕らと子供たちが笑顔でいたことは真実だ」


読書『世界の99%を貧困にする経済』ジョセフ・スティグリッツ著


2013年からの読書ログのタイトル・フォーマットを少しだけ変えます。
以前まではシンプルにタイトルだけ表記していたのですが、さすがに著者くらいは添えたほうがいいだろうとゆうことで。<読書『タイトル』著者名>でいこうと思います。
読んだすべての本をここに残しているというわけでもないんです。
その時の忙しさとかインスピレーションとか、後々また触れるかなーとかいう予感とかいろいろ勘案したうえでブログにログを残しています。
最近では5冊に1冊くらいの割合かな。


というわけで、読んだ本。
2001年ノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・スティグリッツ、ダボス会議の常連ですね。
邦訳では最新の『世界の99%を貧困にする経済』。

スティグリッツの本はこれまでも何度か読んだことがあります。
『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』、『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』。



ただ、主張していることはずっと首尾一貫してて、「グローバリズムも市場も万能じゃないんだ。規制がある程度ないと」ということで。
自由主義経済論者のこちらもノーベル経済学賞受賞のミルトン・フリードマンとは立場を異にします。

特に今著ではアメリカの経済の低落ぶりを市場規制の不徹底さに焦点を合わせながら論じています。
アメリカの不平等のほとんどが、市場の歪みを通じて発生していること、言葉を換えるなら、新しい富を創造する方向ではなく、他人の富を奪う方向にインセンティブが働いていることに問題は起因するのである。
これがタイトルの99%を貧困にするに繋がっているわけで、上位1%の富裕層が下位集団を貪っている。格差は間断なく進行し、持てる物・持たざる者を一層隔絶化し、"二重経済"を生み出していると。 

あとIMF批判もずっと変わらず一貫していっていますね。
経済が下降局面にある国々にIMFが緊縮財政を押しつけてきたことを説明し、IMFの"構造調整"政策ーすなわち民営化と自由化の強制がしばしば、成長の代わりに苦難を、とりわけ貧しい人びとにもたらした。
卒論でも「正義」を主題に取り上げていて、問題意識に深く根付いている自分としてはアメリカの構造的に腐敗した司法の情況に閉口せざるをえませんでした。 
アメリカでは、買収行為はより高いレベルで行われる。買収されるのは特定の判事ではなく、法律そのものだ。この買収は、"アメリカ型汚職"と呼ばれるようになった汚職行為の一環として、選挙戦への寄付やロビー活動を通じて行われる。
これってポーカーと同じ論理なんじゃないかと。
ポーカーってチップを持ってるほど、ゲームを有利に進められるので、現代の裁判ってものすごくお金がかかるので、巨大企業に個人や団体が勝訴するのは難しい。
①優秀な弁護士を雇う費用 ②裁判の長期化に耐えうるだけの費用
要するに、お金のない側は泣き寝入りするしかなくなっているというわけです。
いまのアメリカでは、"万人のための正義"という誇らしき宣伝文句は、"お金を払える人々のための正義"というもっと控えめな宣伝文句に取って代わられようとしている。そしてお金を払える人々の数は減少しているのだ。
この他にも気になった点を挙げるとキリがないので、このへんで。一応メモだけ残しておきます。 

どーでもいいですが、ノーベル経済学賞を受賞する人って必ず学際的なマインドを持っていますよね。
スティグリッツもかなり領野広いし、センも倫理と経済を接合しようとしたし。