Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2012年12月13日木曜日

LINE POP、パズドラ、それでも時間は流れていく


なんだか周囲、もっと広くいえば世間ということになるんでしょうか、LINE POPやパズドラやGREE、DeNaを中心としたソーシャルゲームが流行しています。
多くのひとがスキマ時間を利用して暇つぶしとしてやっているんだと思います。
ただ、どうしてもぼくはやろうと、やってみようという気が起きない。
おそらく自分以外の10人全員がやっていたのだとしても。

ぼくはそんなに器用じゃないし、いちどやり始めると、(スキマ時間以外も)見境なくそれに没頭するのが目に見えているから。


何に興じようと、時間を配分しようと、基本線はみんな同じなんです。
1日24時間なんです、当たり前ですが。
そう考えると、人生を歩んでいくというのは「何に自分の時間を割り振っていくのか」という断続的な決断の連鎖というわけで、人格形成もどこに自分が立っているのかも、これまでの時間配分の集積というか結果だということです。

あらためてそれを考えてみたときに、ソーシャルゲームに時間を投下する勇気がぼくにはない。
お金持ちもいれば貧乏な人もいる。
ですが、こと「時間」になると(もちろんお金を持っていれば時間さえも買えてしまうという側面もありますが)皆平等です。
その意味で「時間という貨幣」はみな対等に持っているんです。
時間という貨幣をうまく使うと、本当の"紙"や"硬貨"のお金に(往々にして知らず知らずのうちに)変転します。

スロットにしてもモンハンにしても、ぼくが積極的にやろうと思わないのは、あっという間に時間が過ぎてしまうことに恐怖心を覚えたからです。
その意味でぼくはただの臆病者なのかもしれません。


いつか村上春樹さんがインタビューのなかで、「マンガは読まないのか?」という質問にこのように答えていたと記憶します。
時間が無限ならば読みたい。だけど、人生は限られている。何を読むのかという選択は慎重にしなくてはならない。だからマンガは読まない。本を読む
と。

とくに若い頃は時間が茫洋とどこまでも広がっているような錯覚になることがあります。
きっと人生で読める本もマンガも、プレイできるゲームも、なにもかも、自分の選択によって限られている。
子供の頃、時間を忘れてテレビゲームに興じていたこと、それはそれで思い出ですが、限られた時間の中で、どのような自分でありたいのか、それを描くとき、ぼくはソーシャルゲームから距離を置かざるをえないのです。

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