Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2012年9月11日火曜日

読書『リベラルなナショナリズムとは』ヤエル・タミール著


イスラエルのテル・アヴィヴ大学の政治哲学教授であり、イスラエル労働党の著名な政治家、2006年にはイスラエルの教育大臣も務めたイスラエルの平和運動家ヤエル・タミールが著した『リベラルなナショナリズムとは』を読みました。
「主権国家を持ちたいという要求は、領土や住民を巡って相互に競合する。しかし、どのネーションの主張を取り上げるべきかという選択を不要にして、多くの国籍、文化的伝統、また文化集団を包摂するトランスナショナルな共同体を作り、そこにおける政治権威の配分を調整できるようにすれば、さらに、そのような配分の選択がある種の補完性原理により導かれるのであれば、ネーション相互の二者択一性は大きく緩和される。つまり一者のアイデンティティが必然的に他者のアイデンティティの犠牲の上で承認される、という状況は解消される」
ヨーロッパの場合は、こういった地域機構が、スコットランド人、バスク人、コルシカ人、ウェールズ人などの小さな「国家無きネーション」に対して、欧州共同体に留まりながら文化的、政治的な自治を発展させることを可能にしている。

【公民教育とナショナルな教育】
市町村、国家であれ、地域機構、グローバル社会であれ、多様なネーションが織り成す政治システムにおいては、子供たちすべてが、異なったライフスタイルを持つ他者、異なった価値観、伝統を持つ他者への尊重を学び、他者を同じ政治システムの成員として対等に見ることがとりわけ重要である。このような広薄な層を土台にして、ナショナルな集団の各々は若者たちに自身の共同体、歴史、言語、伝統についての知識を授けるべきである。従って、公民教育をナショナルな教育から分けることが、平和な多文化社会を持続させるための最重要項目である。
【オプティミスティックなのだろうか?】
われわれにはまだ、現実的な楽観主義を抱く余地が残されている。南アフリカ政治の展開、イスラエルとその隣人とくにパレスチナ人との和平プロセスの穏やかな進展、さらにアイルランドにおける妥協案への初の調印という成果は、リベラル・ナショナリズムが抽象的理論を越えた何かであることを物語っている。リベラル・ナショナリズムは、理論から現実へと変わり得るのである。
【胎動するナショナリズム】
例えばエストニア人、ラトヴィア人、ロンバルディア人は、共産主義体制や西欧国民国家によって強いられた長い昏睡状態から目覚め、筋肉を動かし、民族独立の旗の下で行進を始めている。
【本著の主張】
すなわち、個人の自立、反省、選択を尊重するリベラルな潮流と、所属、忠誠、連帯を強調するナショナルな潮流は、相互に排他的であるという見方が広まっているけれども、実は互いに一方が他方を包摂しうる関係にある。リベラルは、所属、成員性、文化的な帰属の重要性と、それらに由来する個別の道徳的義務の重要性を認めてもリベラルであり続けることができる。ナショナリストは、個人の自立の尊さ、また個人の権利や自由の尊さを認めてもナショナリストであり続け、国民内部あるいは諸国民間における社会正義にコミットし続けることができる。 
【文明化のプロセスに伴う人間観の展開 by ギアツ】
単純な仮想(masquerade)から仮面(mask)へ、役割(personage )から人間(personne)へ、名前へ、個人へ。さらに個人から形而上的・道徳的価値を有する存在へ、そして道徳的意識をもつ存在から聖なる存在へ。聖なる存在から、思想と行動の根本形態へ。このようにしてこの過程は完結した。
 【原子化された自己と状況づけられた自己についてー二極化する人間観】
ナショナリズムとリベラリズムは、共に近代の運動である。双方とも、自由で合理的かつ自律的な人間は、自らの人生の処し方に対して完全な責任を負う能力を持っているという見解を共有しているし、また、双方とも、自己支配、自己実現、そして自己発展を成し遂げうる人間の能力への信仰を共有している。こうした幅広い合意にもかかわらず、ナショナリズムとリベラリズムとは、こうした人間の特質をどう解釈するべきかという点で極端なまでに相違なる解釈を展開してきた。
【「文脈づけられた個人」 'Contextual individual' 】
という人間観は個人性と社会性とを、二つの等しく真正かつ重要な特徴として結び合わせている。それは文化的社会的な成員資格がもつ、拘束的で構成的な特徴を認識しているリベラリズムの解釈を許容すると同時に、個々人を共同体という枠組みにおける自由で自律的な参加者と考え、ナショナルな成員資格を、ルナンの用語で言うところの日々の人民投票と考えるナショナリズムの解釈をも許容する。文脈づけられた個人という概念は、このようにして、リベラルとナショナルの諸理念を相互に一歩近づける
【特定の政治的責務が有するアソシエーション的本性】
アソシエーション的な責務の引き受けは、帰属の感情、および自己とアソシエーションとを同一視することに依存する。かくして、政治的責務に対するアソシエーション的なアプローチは、個々人がそうした責務を引き受けるのが、彼らが国家を彼らの国家と見なし、その法を彼らの法と、その政府を彼らの政府と見なすからである、ということを示唆する。ラズ「彼らの属する社会を自分と同一視し、自分自身を法に服従する責務の下にあるべきものとー彼らは法を、こうした態度を表現するものと見なすー考えるのである。この態度は同意ではない。たぶん、それは特定の時点における特定の行為によって開始された何かではない。それはおそらく、ある共同体への帰属の感覚を獲得してそれを自分と同一視するプロセスと同じくらい長い、ひとつの漸進的なプロセスの産物である。
結論として
未解決のままに残された問いがあるとすれば、それは、ナショナリズムが憎悪に満ちた自民族中心主義の装いを持つことになるのか、あるいはリベラルな諸価値に対する尊重によって導かれるところの、醒めたヴィジョンとなるのかという問いである。 
訳者あとがきより
リベラルの側は、選択の自由が無限であるという幻想を捨て、選択の自由は個別の文化に浸ったという原体験と、選び取るべき個々の文化(の保全)があって初めて可能となるという事実を認識する必要がある。一方、ナショナリストの側は、血と地のレトリックから自らを解放し、個人の自由と選択が不可侵な権利であることを再確認する必要がある。そのような融和の結果として生み出されるのがリベラル・ナショナリズムなのである。 
ズバッと。

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