Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2012年4月21日土曜日

「首なし鶏マイク」から思い出すカンボジアでの一日


首なし鶏マイク(Mike the Headless Chicken)は、首をはねられた後も18か月間生存していたことで知られるアメリカの雄鶏である。
コロラド州Fruitaの農家ロイド・オルセンの家で、1945年9月10日に夕食用として1羽の鶏が首をはねられた。通常ならそのまま絶命するはずであったが、その鶏は首の無いままふらふらと歩き回り、それまでと変わらない羽づくろいや餌をついばむようなしぐさをし始めた。翌日になってもこの鶏は生存し続け、その有様に家族は食することをあきらめ、切断した首の穴からスポイトで水と餌を与えた。(Wikiより)
マイクは約二年間生存を続け、その間、飼い主と共に全米を興行周遊し、当時としては相当の富を主にもたらしたとのこと。
それをみて、多くの人が鶏の首を断ち切って生存させようと試みたが、2日以上を生きた鶏はいなかった。
マイクは今もギネスに認定された首なしで長期間存命を続けた鶏として記載されているそう。

なんだか、カンボジアでの一日を思い出します。
あれはたしか大学二年生の春。
3~4日くらいだったか、カンボジアに旅行に行きました。
着くなり早々、トゥクトゥクのドライバーを雇い、結局最終日まで同じドライバーと過ごしました。


最終日も予定していた日程を終え、飛行機の時間まで数時間余りました。
そしたらドライバーだったポー(この時までにかなり仲良くなっていた)が、「じゃあ、ウチに来なよ。おもてなししたいんだ」と言い出しました。
行きの飛行機でパラパラ読んでいた「地球の歩き方- カンボジア」に記載されていた事項が脳裏をよぎります。
「親しくなった現地人・ドライバーなどに自宅へ招かれても決して付いていかぬこと」
ぎくっ。
ただ、やっぱり直感を信じたかった。
ポーは心の底から良い奴だと。
そこで身ぐるみ剥がされて全部持ってかれたって、死んだって。それはそれだと。
腹をくくり、バイクの後ろ、徐々に徐々に都市部を離れて郊外へ。
だんだん人口建築物もないような、鬱蒼とした茂みの中へ。深く深く。



ついに到着。
電気・ガス・水道などはなく、それこそ葉っぱと木だけで作ったような竪穴式住居のような家。同じような家がいくつか立ち並ぶ、ちょっとした集落がそこにありました。
辺りもゆっくりと暗くなっていきます。
ひと通り、近所さんたち(おそらくほとんどが親類)に挨拶を済ませると、庭にいた鶏をいきなりナイフで屠ると、嬉しそうにそれを僕に見せながら「今日はご馳走だ」と言いました。





それからお湯を沸かし、羽根などを剥いだ鶏をそこにぶち込み、茹で上がるのを待ちます。
その間、野草のようなものを板の上で擦り潰しながら、ソースをつくります。

夕食が出来上がる頃には近所さんたちもぞろぞろと集まりはじめました。
鶏の腹を切り、内蔵を取り出し「ほら、ここが一番おいしいとこなんだ」と言って僕に差し出してきました。
それは今までみたこともないような内臓でした。
断るわけにもいかず、意を決して口へ。
味は覚えていません。
肉の部位も食べましたが、恐らく急に殺されたから筋肉が硬直していてとても固かった。


夜は更け、辺り照らすのは小さなキャンドルのみ。
ビールを片手にささやかな宴はゆっくりとした時間の中ですぎていきました。
上を見上げると無数の星が僕らを見下ろしていました。
みんなに日本語を教えてあげたり、カンボジア語を教わったり、日本のことをどう思うか聞いたり、将来のことはどう考えているかお互いの悩みを打ち明け合ったり、本当に素敵な時間でした。
こうやって自宅に連れてくるのは観光客が集まるような場所が「カンボジア」なのではなく、こういった貧困層もたしかにカンボジアを構成する一部分なのだということをわかってもらいたいと言っていました。


カンボジアで出会った人々との出逢いを通して本当に多くの事を考えました。
ここには書ききれないくらい。
たとえばポーが僕で、僕がポーで生まれていたなら?
僕は日本に生まれることを選んだわけではないし、ポーもカンボジアで生まれることを選んだわけでもない。



目を閉じて、頭を空っぽにする。
スーッとゆっくり呼吸して、そっとポーになってみる、なろうとしてみる。
生まれた瞬間をイメージして、友達と遊び、成長して、大人になる、その過程。
老い、次の世代を思いながら過ごすさりげない日々を想像する。

彼が彼女だったかもしれない、僕があの子だったかもしれない。
そう思うと、目の前の人、隣にいる人、遠くで何か作業をしている人、そのすべてが愛おしくなるような気持ちをおぼえます。

たとえば鶏、家畜はどうだろうか。
家畜として(死にいく宿命として)人間によって交配が行われ、飼育されなければその生命はなかった。
遅かれ早かれ家畜として屠られることを知っていたとしても、その間で人間と同じように小さな出逢いがいくつかあって、そこで恋をするかもしれないし、感動を体験して、生まれてきたことの奇跡を感じることができるのかもしれない。



映画「わたしを離さないで」を観た時もでも同じ事を考えました。
臓器提供のためだけに生まれてくる子供たち、その絶対的な宿命と真正面から対峙しながら、生きていること、生きていくことの意味を掴もうともがく姿。

そういえば、ハンターハンターの最新巻の中の冨樫さんの言葉も印象的でした。
「乾杯しやうぢゃないか。人といふものどもに。善人も悪人もいつの世も人はくり返す。膿むには余りに長く、学ぶには余りにも短い時の螺旋上。だからこそ好く欲し、好く発するのだろう?命など陽と地と詩とで満たされるほどのものなのに」

偶有性の海の中を泳ぎ続けていくこと、やみくもにパドリングし続けること。
それ以外に僕に何ができるだろう。

フロリダにいても、東京にいても、バハマにいても、北極にいても、宇宙にいても、自分は"ココ"にいるということ、それだけは忘れずにいたい。

You've got to let go of who you are, to become who you will be.
Keep crawling.
Peace.

大学生ブログ選手権

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