Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2012年3月18日日曜日

Mr.Childrenから「広告」を考えてみる



櫻井さんがいつだったかのインタビュー記事で作詞技法について、こう言っていました。
「僕は詩を書く時、いくらでも具体的に書くことは 
できるけど、わざとぼやかして聴き手が想像できる 
スペースを空けておくんです。メッセージを言い切 
らないように、でも言い切った以上に、実感として 
感じてもらえるようにしたいと思っていて」
生き方とか考え方とか、つまり価値観において影響を受けた人物は誰かと問われれば間違いなく、真っ先に桜井さんが浮かびます。
物心ついた頃から、ミスチルの音楽が身近にあって、月日が経つのにつれてその音楽、詞(ことば)に心を奪われていきました。
僕が掻き集める端金のほとんどはミスチルのCDやDVDの購入代金へと費やされました。

そのごく一部

高校生、大学生へと進んでいく中で、自分の興味や音楽の趣味の幅も広がり、変容していく中でミスチルを聴く頻度は減っていきましたが、路頭に迷った時、一縷の光明を僕に差し出してくれるのはその音楽であり、桜井さんの詞でした。

櫻井さんは言わずもがな、才能溢れる人です。
作詞・作曲、ギターやピアノ。サッカーをはじめとしたスポーツまで。
そんな中で僕が一番、敬服するのは空間に茫漠と散らばった言葉の海から「詩」を取り出す才能です。
誰もが経験、感じたことのある心情の揺らぎ、得も言われぬ情動や人との関わりの中で芽生える慈愛。
そんな曖昧模糊としたもやもやをピタっと「言語化」する力、正確無比に矢を射るような視点。
誰かがそれを口にする時、歌うとき、「自分だけではないのだと」気付かされ、人の心をは揺り動かされ、感動を胸に感じるのだと思います。

「あるがままの心で生きられぬ弱さを、誰かのせいにして過ごしてる。知らぬ間に築いていた自分らしさの檻の中でもがいているなら、僕だってそうなんだ」(『名もなき詩』より)
「裸になって君と向き合っていたい。栄冠も成功も地位も名誉もたいしてさ、意味ないじゃん」(『es~Theme of es~』より)
「富を得た者はそうでない者より満たされてるって思ってるの?障害を持つ者はそうでない者より不自由だって誰が決めるの?目じゃないとこ、耳じゃないどこかを使って見聞きをしなければ見落としてしまう。何かに擬態したものばかり」(『擬態』より)

人々の間に「共感」を巻き起こすのは容易ではありません。
その具体性や輪郭が明瞭であればあるほど感動の振り幅は増大し、人の奥深くに突き刺さるものだと思います。
さて、そういった「具体性」であるとか、「輪郭」とは一体なんなのでしょうか。
それは見方によれば、各々が持つストーリーであり、オリジナリティであるといえるかもしれません。
それを誰かに伝える時。
ストーリーを色濃く投影すること、オリジナリティを全面に盛り込むこと。
はたして、そこにどれほどの効果や正当性があるでしょうか。

ストーリーが独創的かつ唯一無二の場合、一部の人々には熱烈に受け入れられ、かなり深度の強い「共感」が生み出される可能性はありますが、一般性・普遍性の欠落から、「共感」が及ぶ範囲は限定されてしまう可能性があります。
このジレンマに真正面から向かっていくのが、アーティストであり広告なのではないかと行き着いたわけです。
まあ、社会における営利志向のものごとはなんであれ、そういったパラドックスがまとわりついているわけですが。

「たとえそれが身銭にならなくとも、オリジナリティを追求したいんだ」商業音楽なんてクソ食らえだと声高に叫ぶ人がいるかもしれません。
見据える先、歌うことの当為が「お金」ではないと仮定したとき、なぜその人は楽器を奏で、歌をうたうのでしょうか。
自分の内なるものを人々に伝え、共に感じ合いたい、つまるところ「共感」が視座にあるのではないでしょうか。



「共感」を基底にする場合、話は再びオリジナリティのジレンマへと再帰します。
誰もが頷けるような、心の中に小さな火を灯すような「共感」は巻き込む範囲が広くなります。ですが、言葉は当り障りのない陳腐で安い言葉に収まってしまうことが定型です。
一過性が強く、ある時期爆発的にポピュラリティを得たとしても、永続性をほとんど持ちあわせておらず、シーズンの移ろいと共に忘却の彼方です。
この大衆迎合ループの中に日本のJ-POPはあるのかもしれません。

さて、その逆をもう一度考えてみます。
今度は型にはまらないような、オリジナリティに満ちた作品。
伝播力は相対的に低下しますが、ハマると一部のコアなレイヤーに浸透します。
これがいわゆるインディーズなどでしょうか。

これは音楽に限った話だけでなく、「広告」においてまた然りです。
分かりやすい例でいうと、僕が最近書いて、このブログにも掲載した文章「ティルとその主人
何人かの人が感想をくれました。
もうホントそれは二極化してて、「すごい、いい文章だね」「すこし泣きそうになった」など一辺倒に褒め讃えてくれる人、一方「なんだかチンプンカンプン」「あんまり響かなかった」と正直に共感を得れなかったと教えてくれた人。
題材が黒人奴隷であったこと、舞台がアメリカであったことなどが具体性を帯びすぎ、誰の胸もを打つような普遍性から逸脱する要因になったのだと思います。


僕は専攻が国際政治ということもあり、アメリカの南北戦争であったり、暗澹たる黒人の抑圧された奴隷としての民族史を基礎から学んでいます。
なので仮にこれが自分の文章でなく初見であったとしても一読して大意は理解できたと思います。
ですが、仮に僕が歴史に微塵も興味がない理系学生であったり、歴史嫌いな高校生であったとしたら、たしかにこの文章を一度通読しただけでは、コンテクストを理解できないかもしれません。
つまり、広告としては駄目駄目な文章なわけです。
かりに文字制限なく、背景設定やコンテクストの描写に字面を割くことができていればそれを多少なりとも克服できたのかもしれませんが、これまで滔々と話してきた「オリジナリティのジレンマ」を超克することにはならないわけです。

いま一度、冒頭の櫻井さんの言葉を。
「僕は詩を書く時、いくらでも具体的に書くことはできるけど、わざとぼやかして聴き手が想像できるスペースを空けておくんです。メッセージを言い切らないように、でも言い切った以上に、実感として感じてもらえるようにしたいと思っていて」

櫻井さんの絶妙なバランス感覚の淵源が垣間見える言葉ですよね。
あえて具体性をもたせずに「余白」をつくる。
つまり「共感」はあくまでも、感じることはあっても完全無欠に同じ体験などあり得ないという、至極当たり前でいて、見落としがちな真理を櫻井さんは言っているのではないかと思ったわけです。
ある人にとっての原体験は、どこまでいってもその人に固有の体験でしかなく、同じ場所で同じ演出で同じ行動をとったとしても完全一致できるはずない。
誰もがそれぞれのストーリーを抱えながら生きている。
ひとりひとりの間にあいた隙間に光(共感)を注ぎこむように、櫻井さんがあけた余白に、だれもがそれぞれのストーリーを乗せながら共感できるように。

この絶妙なバランス感覚をもってして、櫻井さんが意図的にあけた空白に人々が寄り添い、集うようにMr Childrenはここまで音楽を大成させてきたのかもしれません。

「わざと余白をつくること」
僕とあなたが共鳴できる隙間(スペース)を十分に確保しておくこと。
もっと意識しながら生きていきたいです。



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