Each day is a little life: every waking and rising a little birth, every fresh morning a little youth, every going to rest and sleep a little death. - Arthur Schopenhauer

2011年11月20日日曜日

「保護する責任」は正当だったのか、押村・納家合同ゼミがありました

The Brainwasher/ the HIATUS


昨日、土曜日に押村ゼミと納家ゼミの合同ゼミがありました。
テーマは「リビアへの保護する責任の適用は正しかったか」
両ゼミ混合にした上で、賛成・反対にわかれ、ディベート形式で行いました。
自分は賛成側でした。

保護する責任が本当に国際社会がとりうるラストリゾートだったのか、というところが焦点になるとは思っていました。
そもそも何を持ってして「最後の手段」なのか。検討を重ね、見極めている間にも人民の命は失われていきます。
スピード感・迅速な判断は特に重要です。

「保護する責任(Responsibility to protect)」が誕生した背景は、ルワンダの大虐殺(1994)、スレブレニツァの虐殺(1995)などのジェノサイドに対し、国際社会が適切な処置をとることができなかった反省から、カナダ主導で国際委員会で2000年に打ち出されました。

ところが2011年に至るまで、この10年間運用されることは皆無でした。
この間にも、ガザ地区・ダルフール・コートジボワールなど危機的状況がいくつもあったのにも関わらずです。

しかし今回のリビアの件では、画期的とでもいうかのようなスピードで決議からわずか2週間で介入が実施され、自体は収束しました。(再建の問題などは別個にありますが)


このプロセスも適切なものであったと思っています。
資金凍結、経済制裁など武力行使以外に考えられる手段を実行した上で、効果がみられなかった。
そこで安全保障理事会は賛成15の完全なコンセンサスの元、安保理決議1970を可決します。
いわば、これが「最後の手段の予防線」、リビアに対する最後通牒だったのです。
ところがカダフィはこれを無視、空爆を続行します。

そして安保理決議1973が可決され、武力介入が行われたのです。
反対はありませんでしたが、ロシア・中国など伝統的に「内政不干渉」を訴え続けてきた国は「武力行使には慎重であるべき」だとして棄権しています。
これは自明ですが、両国ともチベット、グルジアなど自国内に人権問題を抱えているため、「介入」を認めるわけにはいかないのです。

今回の介入が、ウェストファリア体制の元、護持されてきた主権国家システムに揺らぎをもたらすのではないか、「保護する責任」が乱用されるのではないか。
という懸念が当然あります。
基本的には今回のケースのようにコンセンサスが前提条件になるべきです。
中国やロシアが拒否権(veto)を乱用するのでは、という指摘もありましたが、これもケースバイケースで、それらの国も権益と密接に関わりのある地域ではそのような可能性も否定できないかもしれませんが、それ以外の地域であからさまに人権が蹂躙されている場合に拒否権を発動するのはナンセンスで国際的に孤立してしまう恐れもあります。

今回のケースに限っては、成功したように思えますが、これをいいことに介入を軽視し、簡単に「保護する責任」を使うことは国際政治に混乱を招きます。
個々のケースごとに慎重な分析を加え、最適の手段と思われる場合にのみ限定されるべきだと思います。
大学生ブログ選手権

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